>>393
http://agora-web.jp/archives/2035647.html
三枝成彰・岡田克也の徴用工判決擁護発言を断罪

死体のざらしというのは、まったく虚構であることが立証されているうえに、
あったとしても責任者は福井藩であって長州藩とは無関係のいいがかりである。

もっとも、会津の歴史捏造は韓国のそれと共通項がある。そもそも、
苛政に苦しんでいた会津の民衆は官軍に協力したくらいである。
松平容保が東京に送られるときにも農民たちは籠を振り返ろうともしなかったと幕府方の記録にもある。
ひどい悪政のあげく敗れて特権を奪われた会津武士の怨みは両班の怨みに似ている。

そのあたりは、「会津の悲劇」に異議あり「日本一のサムライたちはなぜ自滅したのか」
(晋遊舎新書)に詳細にわたって論破しているが、会津観光史観といわれることもある
会津被害者論は韓国並みにひどい嘘の総合商社だ。

会津は明治維新後、土佐の谷干城や薩摩の大久保派と組んだ。そして、長州や土佐の板垣退助の系統、
佐賀などを目の敵にした。福島事件は薩摩の三島通庸に会津帝政党が協力して、
三春藩出身で板垣の自由党の幹部だった河野広中の子分達を襲った事件だ。

佐賀の乱は江藤新平たちが西郷と連携するのを怖れて大久保の命を受けたあの岩村精一郎と
谷干城の手先として会津藩家老の山川浩が挑発して起こした。
西南の役でも会津藩士が官軍で大活躍し、山川の妹は薩摩の大山巌と結婚した。

長州は8月18日の政変で会津に宮中から追われ、禁門の変、池田屋事件でも残酷に処断された。
しかも、会津戦争にはあまりかかわっていない。長州が会津を恨む理由は山ほどあるが、
逆はほとんど理解できない。会津の関係者になんで長州がそんなに憎いのか聞いても
満足のいく回答をいただいたことがない。