【福島】会津藩士埋葬の史料発見 「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し 会津若松市[09/25]©2ch.net
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戊辰戦争で会津藩が降伏した直後の1868(明治元)年10月、
戦死した藩士らが埋葬されていたとする史料が会津若松市で見つかった。
従来は、西軍(新政府軍)が遺体の埋葬を許さなかったとされてきたが、
埋葬場所、埋葬経費などが詳細に記されている。
見つかった史料は「戦死屍取仕末金銭入用帳」の写し。
筆者は不明だが、写しは会津藩の要職を務めた藤沢内蔵丞(ふじさわ・くらのじょう)の子孫が
約40年前に市に寄贈した史料約170点のうちの1点。
会津歴史考房を主宰している野口信一さん(68)が昨年12月、
市史史料目録を整理するため史料を借り受け、内容を確認していた際に発見した。
写しによると、1868年10月3日から同17日にかけ、会津藩士4人が中心となり、
鶴ケ城郭内外などにあった567体の遺体を発見場所周辺の寺や墓など市内64カ所に集めて埋葬した。
発見当時の服装や遺体の状態、名前が記載されているものもある。
このうち、蚕養神社の西の畑にあった22体は
近隣の60代女性が西軍の武士に頼み、近くに葬ってもらったとの記載がある。
戊辰戦争のうち会津戦争では会津藩士ら約3000人が亡くなったとされる。
西軍は遺体の埋葬を許さず、降伏から半年後の1869年2月に現在の会津若松市七日町にある
阿弥陀寺に改葬が始まるまで、野ざらし状態だったと言い伝えられてきた。
地元の歴史関係者によると、この対応が長年、西軍側との感情的な溝を築く要因の一つとなってきた。
野口さんは
「伝染病の発生など衛生面を考えても半年間、遺体が放置されたというのはあり得ない。
史料から少なくとも500人以上が埋葬されていたと分かる」と話している。
以下ソース:福島民報 2017/09/25 10:22
http://www.minpo.jp/news/detail/2017092545375 そりゃ駐留するのに腐乱死体があったら仕事にならんから差し障りのある範囲内は片付けるだろ
その辺の野っ原の遺体は放置された んだよな 戊辰戦争は東西対決ではない。
死体埋葬に関しては
会津側だけの死体埋葬を禁じたのではなく
両軍の勝手な死体埋葬を禁じたもの。
会津若松が観光地に命令の原文出してるが
どこにも会津側だけの死体埋葬を
禁じてる箇所がない。
死体埋葬禁止は会津プロパガンダ
反日プロパガンダである 戊辰戦争を東西戦争にしてる時点で会津プロパガンダだからな。
会津の死体埋葬禁止も会津プロパガンダによる捏造。 夥しい数なんだから
埋葬された人も居るし 野ざらしだった人も居たかもしれない。
雪が深いから 野ざらしでも腐乱は免れた可能性もある。
ただ 古文書 作れるんですよねぇ、今どき。 ほら見ろ
会津の自虐史観の連中は日帝憎しで被害者コスプレの為なら捏造上等
元々の会津の人間はほとんどいないアッチ系ばかり たった140年前の情報さえまともに伝わってないとか笑うしか無いな
こりゃ70年前の敗戦も直にうやむやだなw これはもともと会津藩士(町野主水、柴五三郎)が
翌月から埋葬を始めたと書き残しているのに
「官軍が作った歴史は信用できない!」という理屈で
嘘あつかいされていた話。 この調子では白虎隊にも大きな嘘が、自決ではなかったとか
そもそも会津藩士埋葬禁止とか、意味不明過ぎるしな
出典元の一次資料も存在しないし、主張してる奴も思想的に片寄ったパヨばっかだしな まともな研究家に発見されてよかったね。
歴史利権がからんだ輩に見つかったばかりに
公表もされないでひっそり焼却されている資料もけっこうあるんじゃないか。 >>12
白虎隊の自決は裏付けが出来てないのに
史実扱いしてるからな会津プロパガンダはw
ちなみに勘違い切腹は捏造だよ。
飯沼はそんな証言はしてないからね。
とはいえ、飯沼の証言もおかしいし
裏付けされてないけどね。 >>11
は?敗者が捏造した歴史がバレたって話なんですけど…。 会津は日本の朝鮮だよ
県内でも政府に荷担した地域を
未だに差別してるからね 日中戦争、太平洋戦争は陸軍東北閥が起このした。
1930年頃より長州閥が追放され盛岡出の東条や山形の板垣大将が実権を握って軍国主義にまっしぐら。
長州閥が残っていればあんな悲劇にはならなかった。 不思議な事に日本の保守は反日プロパガンダを
見抜く目はあるのに会津プロパガンダを
見抜く目がない。
桜井誠ですから会津プロパガンダを信じ
酷い目にあったんだとは思うと発言している。
会津こそ外国に国土を売り飛ばそうとしたのに。
死体埋葬禁止もかなり前に無かったと証明されてる。
なぜ日本の保守は会津プロパガンダには甘いのか? 会津藩降伏直後「埋葬禁止は誤解」…史料で確認 : 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171006-OYT1T50004.html
2017年10月07日 07時19分
1868年の戊辰戦争で会津藩が降伏した直後、藩士ら500人余りが埋葬されたことを詳細に記した史料が確認された。
調査した福島県会津若松市の歴史研究家、野口信一さん(68)は
「戦争直後に埋葬が行われたのは確実で、新政府側の指示で埋葬が禁じられたというのは誤解だ」と話している。
記述が見つかったのは、1869〜70年頃に会津藩士が書いたとみられる「戦死屍取仕末金銭入用帳」。
後に市民から市に寄贈された史料で、市からの委託を受けて調査をしていた野口さんが内容を読み取った。
この中で、会津藩士4人が1868年10月3〜17日に計567人を64か所で埋葬し、
経費が74両余り(現在の貨幣価値で450万円程度)、携わった労働者はのべ384人に上ったと記されているという。
葬られた人の中には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公になった山本(新島)八重の父、山本権八とおぼしき人物も含まれている。
会津藩は若松城での籠城戦の末に降伏し、数千人規模の死者が出たとされる。
「会津は賊軍として扱われて藩士の埋葬が新政府軍から禁じられ、遺体が半年間野ざらしにされた」
との通説が浸透しており、新政府軍の主力だった長州藩(現在の山口県)に対するわだかまりの元となっている。
会津若松市史では、新政府側が設けた民政局が同年10月に戦死者の片付けを命じた――と記述されているが、ほとんど知られていない。
2日に記者会見した野口さんは
「白虎隊士とみられる8人が寺で自害し、村人によって埋葬されていたとも書かれている。今まで知られていなかった事柄の記述も多い」
と話している。 >蚕養神社の西の畑にあった22体は
俺んちじゃん
掘れば出てくんのか?歴史的名刀が!? >>24
どうかな、お前の親父が古物商に売りさばいていた奴以外に残っているかどうか・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています