>>972
それはどうかな?戦前の皇族会議は現在の皇室会議(10人の議員中、皇族は2人だけ)とちがい、
成年以上の皇族男子全員が参加資格を持ち、皇族が会議のメンバーの圧倒的多数を占めていた。
つまり、時の政府がいくら皇族の臣籍降下を推し進めようとしても、皇族たちが反対したら、
どうにもならないシステムだった。

だから大正9年の「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」にしても、政府としては正式な法律として公布し、
強制的臣籍降下に道筋をつけたかったのだろうが、皇族たちの反発が予想されたため、
結局皇族会議での採決と法制化は断念し、あくまで「準則」(内規)という中途半端な形で妥協している。

もし敗戦とGHQによる占領がなく、戦前の皇室典範と皇室のシステムがそのまま続いていたら、
しかるべき時になり、政府が「準則」を基に機械的かつ強制的に皇族の臣籍降下を実施しようとしても、
当事者である皇族が多数を占める皇族会議でスムーズに承認されるとはとても思えない。

おそらく大紛糾の末に、各宮家の嫡子は世数に関係なく臣籍降下せずにそのまま宮家を継承、
嫡子以外の男子は「準則」どおりに臣籍降下、嫡子がいない宮家は現当主が亡くなったら断絶、
といったところが落としどころになったと思う。

なによりも明治維新以後、天皇自身が皇族の数を多少減らす必要性は認識していたにしても、
旧宮家の傍系皇族を全て臣籍降下させて失うことを望んでいたとは考えにくい。
男系による皇位継承を守るために、皇統の直系に万一のことがあったときの安全装置として、
南北朝時代から数百年にわたり、直系とは別に傍系の皇族(明治維新までは世襲親王家、
それ以降は旧宮家)を常に絶やさずに維持してきたことの重要性は十分理解していたはずだ。
なにしろご自身が、江戸時代後期に当時の皇統の嫡流が後桃園天皇の崩御によって断絶し、
急遽傍系の世襲新王家(閑院宮家)から即位した光格天皇の子孫なのだから。

現に明治天皇は、一定の世数に達した皇族は機械的に臣籍降下させることを法制化しようとしていた
伊藤博文に圧力をかけ、当初の構想を断念させて、永世皇族制を定着させたし、
明治天皇と昭和天皇は自分の皇女(内親王)を旧宮家に嫁がせ、傍系皇族との父系での血縁関係の遠さを母系で補い、
万一皇統が傍系に移った場合の「血」の正当性を担保しようとしている。