>>955
皇位継承問題の解決策として旧宮家の話がでると、いわゆる皇別摂家も引き合いに出されることが多いが、
このふたつには大きな違いがある。

旧宮家は約70年前の1947年に臣籍降下するまで皇位継承権がある正式な皇族だった。

一方で皇別摂家(近衛家、一条家、鷹司家)は約300〜400年前の江戸時代前期〜中期に
男性皇族が臣籍降下して摂家に養子に入ったものであり、それ以来ずっと臣籍(民間人)で、
皇族として扱われたことはない。

現在のところ両方の子孫は天皇と血縁関係がある民間人という点では同じだが、
民間人であった期間はできるだけ短いほうがいいという視点で見れば、もし今、皇族の身分を与えるなら、
旧宮家の人たち(約70年)のほうが、皇別摂家の人たち(約300〜400年)より適切だろう。

それにもともと旧宮家(元世襲親王家)は傍系の皇族として、皇統の直系に後継者がいなくなったときに、
代わりに後継者を出して男系の皇統を維持するための予備系統、さらに言えば血のスペアの役割を持っていた。
徳川家における御三家のようなものだ。

そのため明治維新までは、最大で4つあった世襲親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)の当主は
天皇の猶子(養子)となって親王宣下を受け、「〇〇親王」という地位と名前を与えられ、
直系の皇族に準ずる扱いを受けてきた。さらに、もし世襲親王家に後継ぎの男子がいなかった場合には、
天皇か上皇の皇子が養子となって世襲親王家を継承することになっており、皇統の直系に万一のことが
あったときのための男系の予備系統を絶やさずに維持しておく努力が払われてきた。
この状態が明治維新まで数百年にわたって続いていたのだ。

実際に過去に2回、当時の天皇の直系に皇位継承者がいなくなってしまい、世襲親王家から
天皇が即位した例がある(第102代後花園天皇:伏見宮家出身、第119代光格天皇:閑院宮家出身)。

しかし皇別摂家には皇位継承者候補を出す役割はなかった。

こうした歴史的な背景からみても、もし現在の皇統が断絶の危機に瀕したときに
新たに皇族として迎え入れるとしたら、優先順位として、まずは旧宮家の男系男子からと考えるのが自然だろう。
もちろん、もし旧宮家に男系男子がいなかった場合などは、皇別摂家の男系男子も
検討の対象になるかもしれないが、現在は旧宮家の男系男子が10代の者を含め、それなりの数がいる。