>>59
>膳夫王の父、長屋王の封の処遇は親王と同等であり、『日本霊異記』には「長屋親王」と記載され、「長屋親王宮鮑
>大贄十編」と記した木簡が出土しています。
>五百井女王の母能登内親王が、父白壁王の即位により内親王とされて11年経過して薨去した後に行われた天皇
>勅命の特別措置です。
>いずれも、既に父系により王女王である者に上位皇親の身分を与えるもので、継嗣令皇兄弟子条の令義解の公的
>解釈の類推適応に当て嵌まる。

そちらの仮説では父方の血筋の王位ということになるんだろうけど、続日本紀には「吉備内親王の子」「能登内親王の子」
として身位変更したことが明記されていて、長屋王のことは書かれていないし市原王も追記に留まっている。
こちらの仮説は続日本紀の記述と一致している。

また長屋王は親王格の特別待遇を受けていたけれど、正式な身位はあくまでも2世王。
「長屋親王」が正式な身位なら、藤原長娥子の子の安宿王(3世王)らも2世王になっていたはず。

 ○丁丑(二十五日)、勅(みことのり)して、三品吉備内親王(ひめみこ)の男女(だむじょ)を、皆皇孫(みなすめみ
 ま)の例(つら)に入れたまふ。―霊亀元年二月丁丑条
 ○麻呂を遣(つかわ)して、第(てい)に就(つ)きて詔(みことのり)を宣(の)らしめて日(のたま)わく、「天皇(すめら)
 が大命(おほみこと)らまと能登内親王(のとのひめみこ)に告(つ)げよと詔(の)り たまふ大命を宣る。(略)子等
 (こども)をば二世(ふたつぎ)の王(おほきみ)に上げ賜ひ治め賜ふ。(略)内親王は天皇(すめらみこと)の女
 (むすめ)なり。正五位下市原王(いちはらのおほきみ)に 適(あ)ひて、五百井女王(いほいのおほきみ)・五百枝
 (いほえ)王を生めり。―天応元年二月条
 〈注〉父方の市原王(四世王)の子としては五世王である五百井女王・五百枝王を、母親が能登内親王(光仁天皇
 の女)であるから二世王とするとしたもの。二世王である長屋王と室の吉備内親王 との間に生れた子を、長屋王
 の子としての三世王ではなく、母方によって二世王とした先例がある (霊亀元年二月丁丑条)。―『続日本紀 五
 (新日本古典文学大系 岩波書店)