1895年までの中国人は釣魚島を利用した主な行為が、航路標識、海岸の防衛、漁業、薬草を採集するなどであります

では以下の内容はただ一部の文献と文書で、全部の証拠ではありませんが一部をご参考していただきたい。

まず、琉球は日本の明治維新後に沖縄県として明治政府の支配下に置かれるまでは独立した国であり、
明、清それぞれの王朝との間で冊封関係にあり、新たに琉球中山王に就任するに際して、中国の皇帝
からの冊封の儀を受けることが、その正統性を示すうえで不可欠であった。琉球への冊封使の派遣は
明、清あわせて24回に及び、冊封使はいずれも派遣経過と琉球の現状報告を「使琉球録」などの文書
として皇帝に提出していた。明代の琉球册立使を書いていた「使琉球録」のなかに、釣魚島(魚釣島)
、黄尾島(北小島)、赤尾島を明載するこたがわかりました。

次は、明清両王朝はよく釣魚島付近で海岸防衛を行ったことが、明確の主権行為と歴史資料で明らかで
あります。たとえば、明初、海軍将軍??は、艦隊を統率して、海賊を壊滅のために、福州から釣魚島を通り過ぎて「琉球大洋」(今の琉球海溝)まで海賊を全滅しました。「洪武七年(1373年),
海上有警。???充?兵官,同都督金事???江?四?舟?出捕楼,至琉球大洋,?其兵船,献俘京?。」
つまり、いまの琉球海溝まで、全部中国の領海範囲であります。琉球海溝を越えなら琉球政府の領域に入り
ので、無断侵入することができません。でも、ここでもはや釣魚島を超えるすぎ距離であります。

三つは、釣魚島海域は昔から中国福建省、広東省、海南島の一部、台湾の漁民の最も重要な漁場であり、
数百年内に絶え間がありません。《捍海図経》の中に、「釣魚嶼,自嶼遠近多巨,長約十数尺,見風帆影,
逆于波上,夜則躍而有光。按海魚族類頗多,因訪漁略言之者,曰朱、曰鞠鼈、曰刺鼈、曰虎鼈、日青鼈、
曰?矍鼈、曰犁頭鼈、曰狗頭鼈、曰和尚鼈、曰白蒲、曰吹鼈螺,吹螺者鳴,則風雨大作,?食魚害人。
又虎鼈者,有化為虎?島人畜,其余不尽聞也。」という明細的な記録が当時釣魚島付近の中国漁民の
状況を明確に記載されたことは明らかであります。


中国人は数百年の歴史に絶え間なく釣魚島を利用続けて、国際法により、人類居住に適合しない無主地
の先占は、発見、そして実際に利用すれば先占になることに相応の証明であります。

日本の歴史資料から見れば、明治十七年(一八八四年)ごろから、古賀辰四郎がこの地でアホウ鳥の羽毛
や海産物の採取事業をはじめ、島の発見者以外、何の証拠も提出することができないと日本政府の資料で
明らかのことであります。


でも中国の参考文献、文化財産、古書、王朝文書の中に、すでに五百年間(1372年一1895年)に釣魚島を
平和利用、絶え間なくの領土主権持つ記録があります。その時島は航路標識、漁業と薬草の原産地として
利用され、中国海岸の防衛範囲に含められました。全ては先占に一致します。