>>78
信長公記
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg212.html


 日本一の場所とたたえる理由としてもっとも注目しているのが節所(要害の地)であることより、経済的側面であることが重要である。
すなわち、流通の拠点都市奈良・堺・京都に近いこと、京都や近江・日本海との物流の大動脈である淀川の水運の港であり、
海からは海外貿易の船が出入りできることにある。
大坂は川と海両方の水運の結節点であったのである。
秀吉が後にここに大阪城を築くのはそのためである。
だから、このような地を「日本一の境地」と見る目を秀吉もまた共有していたということになる。
それは単にしぶとい敵が抵抗を続けられたのはなぜかと理由をさぐる目ではなく、
そこをわがものにせんとする目であり、太田牛一の筆は信長の目を描いたものにちがいない。
(池上裕子『日本の歴史第15巻 織豊政権と江戸幕府』講談社(2002年)p.52-54)