〈昭和30年代の東洋大学〉 『朝日新聞』 昭和36年9月26日付

四聖像[東洋大学] 薄くなってきた影 “時代の波”に押されて

東京都文京区の白山台にある東洋大学の、正門からグラウンドを抜けて、
「みそひともじ」にちなんだ31段の石段を登ると、正面に5階建の本館がそびえている。
その入り口の上部に、4人の老人が眠るがごとく浮き彫りされていた。

これが四聖像――左から韓図(カント)、孔子、釈迦、瑣克刺底(ソクラテス)。
東西哲学史の四横綱を並べたところが、この大学の特徴である。

「人誰レカ生レテ国家ヲ思ハサルモノアランヤ、人誰レカ学ンテ真理ヲ愛セサルモノアランヤ」と
28歳の青年井上円了氏が、50人の学生と2人の教師とで寺子屋的な哲学館をおこしたのが明治20年。
当時の西欧思潮万能にレジスタンスして“日本主義”のプラカードをかかげたこの哲学教育は、
明治39年東洋大学と改称するころには、すでにりっぱな花を咲かせていた。

それから大正、昭和へと順調に咲きつづけた花園も、戦後になると急にしぼみかけた。
「いつの間にか坊さんの大学と思われていたのですね。とにかく文科系の学部だけでは学生が集まらない」
……こうして、東洋いや“騒動大学”と陰口をきかれるように、経営をめぐってのゴタゴタがつづいた。

しかし今は大丈夫である。哲学の花、いわば文学部のほかに、経済学部(25年)、法学部(31年)、
社会学部(34年)、工学部(36年)と、やつぎばやに新しい花が咲きはじめたからだ。とくに工学部は
“産学協同”という肥料をたっぷりかけて、埼玉県川越市の約30fの地に新花園をつくろうとしている。

こうなると影が薄くなったのが四聖像だ。31年本館を新築して四聖人のレリーフを
とりつけたころには「なぜマルクスを入れないのだ?」と、学生たちも関心をもっていたが、
今の学生は「四聖像?キリストははいっていないんですか?興味ないですね。それよりも
工学部ができると聞いたとき、われわれの授業料が使われるのではないかとヒヤヒヤしましたよ」

焼け残った戦前の大講堂の建物に、テレビ・スタジオがつくられ、テレビ授業が行われているこのごろである。
この大学の急変ぼう、“おしゃかさまでも”……