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明治大学生田校舎は昭和25年3月まで慶應義塾登戸仮校舎だった。


アメリカ軍の日吉進駐によって、大学予科も校舎を失った。そこで、さしあたり事務所を
工学部と同じく日吉の体育会寄宿舎に移したうえで、急いで校舎を探し求めた結果、
理科系の医学部予科、工学部予科および文科系(特に法学部)の予科1年は
登戸仮校舎に、その他は一時三田に移って、間もなく三ノ橋仮校舎にはいった。

「登戸仮校舎」は川崎市東生田の陸軍第九技術研究所跡の土地建物を借り受けたものであって、
「登戸」というのは付近一帯の名称である。全域約11万坪、建物約7万坪のうち、一部を北里研究所や
川崎国民学校などが使用し、また約3万坪は耕地として地元のものが占有しており、慶應義塾が
借用したのは使用認可書によると、土地1万9772坪、建物87棟4313坪25、義塾側の昭和23年6月30日
現在の調査によると、土地2万450坪、建物3864坪3であった。借用部分の地番は「川崎市生田5158に」
当たり昭和20年(1945)10月から25年3月末までこれを使用した。

この登戸仮校舎は、交通が不便なうえに、維持、改修に多額の費用を要し、また、22年2月28日
午後には工学部予科生の使用していた寄宿舎1棟百余坪を全焼するという災厄に見舞われたが、
当事者の不断の努力により、全く廃墟のようであった施設に手を加えて、物理、化学、図学等の
各実験室や実習室もでき、22年5月からは図書館も開かれて、ようやく学校らしいおもむきを備えてきた。

かくて3年余にわたってこの仮校舎を使用し、昭和24年春、ようやく法学部予科が
三田に引きあげ、さらに同年秋には日吉地区の接収が解除されて医・工両学部の予科も
順次引き上げた。そして、それにともない登戸の校舎は昭和25年1月30日付でその一部を返還し、
一部にはなお教職員が居住していたが、それも同年3月末までに全部返還を終わった。

(慶應義塾 『慶應義塾百年史』 中巻(後))