いま指摘したように「地域の持続可能性」という姿は「政策」によるところが大きく、ドイツなどはまさにそうした方向を目指した公共政策を展開してきた。

一方、戦後の日本の(国レベルの)政策展開を振り返ると、むしろ地域の持続可能性を損なうような政策が行われてきた面が大きいのではないか。

こうした点に関する戦後の日本の政策展開は、私見では次のような3段階に分けることが可能と思われる。

第一ステップ:いわゆる高度成長期(1950〜70年代頃)――“ムラ”を捨てる政策

この時期は一言で言えば「農村から都市への人口大移動」の時期であり、またそれを支援する種々の強力な政策が行われた(大都市近辺での大量の団地ないし公的住宅整備など)。

実際、農村部の人口減少がもっとも大きかったのはこの時期であったわけで、近年における農村部の人口社会減ははるかに少ないということを忘れてはならない。

たとえば秋田県の場合でも、若者が大量に東京などの大都市圏に出て行ったのは昭和30年代〜40年代頃の時代であり、近年のそうした社会減はずっと少ないのである。

つまり近年地方都市や農村部の人口減少が著しいのは、最近の社会減が主要因ではなく、むしろ高度成長期に農村部に残った人たちが高齢化し、近時に至って自然減が顕著になっているからなのだ。

同時に注意したいのは、この時代には地方の中小都市は(商店街などを含め)かなりの賑わいを保っていたという点である。

というより、農村からは(東京などの大都市に限らず)地方の中小都市にも人口が流入していたので、地方都市の商店街や中心部がもっとも賑わっていたのが実はこの時代だったという点に留意する必要がある。

全体として、この時期は“「工業化」一辺倒”の政策がとられたのであり、農業や農村の優先順位は大幅に下げられ、その結果、他の先進諸国とは異なり、この時期から日本の食料自給率は一貫して低下していった(図4)。
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これは事実上「“ムラ”を捨てる政策」と評さざるをえない政策展開であり、日本の農村部の「持続可能性」はこの時期に大きく損なわれたのである。

第二ステップ:1980〜90年代頃――“マチ”を捨てる政策

さらにそれが大きく変容するのが第二ステップの時期である。この時期は先ほどもふれた「アメリカ・モデル」と呼ぶべき都市・地域経済のあり方が政策面でも全面的に導入された。

すなわち、流通政策・経済政策(当時の通産省)と道路・交通政策(当時の建設省等)のいずれもが強力に自動車・道路中心の都市・地域モデルを志向したのであり、それに呼応するかのように、同時期にイオンなどの大型モールが登場した(イオンの最初の大規模モールは1992年〔青森〕、93年〔秋田〕)。

こうした過程を通じ、地方中小都市の中心部はこれ以降完全に空洞化が進むことになった。つまりこの時期は、実質的に「“マチ”を捨てる政策」がとられたのである。

ここで重要な点は、現在の日本の地方都市の空洞化は、政策がうまく行かなかったからではなく、皮肉にも、むしろこの時期にとられた(国の)政策の“成功”の帰結とも言えるという認識である。

こうした点(政策が目指したものと、その効果)をきちんと事後評価しなければ、今後の展望は開けてこないだろう。
いまこそが政策の転換期
第三ステップ:2000年代ないし2010年代以降――転換の兆し?

最後に第三ステップは、2000年代ないし2010年代以降の時期であり、かなりの希望を込めて言えば、以上のような流れとは異なる新たな潮流や政策転換の兆しが見られつつある。

一つには、高齢化の進展により、“遠くのモールに自動車で買い物に行けない”という層が増加し、全国に600万人ないし700万人と言われる「買物難民」問題などが徐々に認知されるようになり、地域に根ざした商店街などの新たな価値が認知されつつある(余談ながら、私の実家は岡山市の中心市街地の半ばシャッター通り化している商店街だが、最近若い世代が続けてカフェを開いたり、高齢者の買い物客が増えるなど、新たな再生の兆しが表れ始めている)。

また、人口減少社会への移行の中で、過度な低密度化の問題が顕在化し、人口増加期とは異なる都市・地域モデルの必要性が次第に認識されるようになり、筆者の言う「地域密着人口の増加」に加えて、若い世代の間にもローカル志向・地元志向といった新たな志向が広がりつつある。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55698