現代ビジネス 2018.05.01
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55505

衝撃をもって受け止められた、阿部幸大氏による「教育と文化の地域格差」に関する論考「『底辺校』出身の
田舎者が、東大に入って絶望した理由」。「地方には、高等教育を受ける選択肢や機会そのものが
不可視になっている層が少なからず存在する」という問題提起は、多くの読者の共感を得ると同時に
批判をも呼び、議論はなお収まらない。

膨大な数にのぼる反響をふまえて、続編をお届けする。

(中略)

否定された」と感じた方へ

前回、私は「田舎と都会」という大きな二分法で議論を立てた。私が意図したのは、なによりもまず、
地域格差という問題の提起と可視化そのものであったためである。

この「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、
いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も
「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになったのだ。

ただし、私は本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、
個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである(前回の記事が「虚偽だ」という意見に
賛成の人は、本稿を読んでから、もういちど読み返してほしい。まったく違って見えるはずだ)。
しかし、それがうまく読み取ってもらえなかったということは、私の書き方が悪かったということだ。

まずはこの点について、特定の団体や個人にかぎらず、田舎で一生懸命に暮らしている人々、
あるいは田舎だからこそできることを模索し挑戦している人々が、その存在や試みを無視され否定されたと
感じたとすれば、それは心から謝罪するしかない。まことに申し訳ない。

私とて、むろん、釧路市をふくむ田舎を敵視・蔑視していると誤解されるのは本意ではない。
たしかに十代の私にとって、釧路はなんとしてでも「脱出」すべき場所だった。私は情報と文化に飢えていた。
しかし、田舎に生まれなければ現在の自分はありえないのだし、中高ではいまだに私淑している恩師にも恵まれた。

私にとって地元は、愛憎の相半ばする親のような存在である。田舎から都会への移動を経験した人の多くが
そう感じていることだろう。私は帰省のたびに母校やお世話になった人々を訪問し、授業や講演のようなことを
していることも付記しておく。

(中略)

「ルサンチマン」?

私は前回、すでに「弱者同士で対立しても意味がない」と強調した。しかし、反対意見は「こんな田舎なんて
ないでしょ」という消極的な否認と、「田舎はそんなんじゃない」という積極的な怒りとに分かれ、
重要なので繰り返すが、もっとも私が賛同を得たかったはずの存在である後者の一部が、もっとも苛烈な反論を
展開する皮肉な事態になってしまった。

これは、文化・教育の地域格差に対する社会の認識があまりにも不足しているため、現段階では
仕方のないことであるだろう。だが、もう一度言っておきたい。田舎者どうしでいがみ合っていたのでは、
まったくもって本末転倒である。われわれは田舎の状況の改善のために、団結し連帯しなくてはならないはずなのだ。

勝手な推測だが、「田舎を馬鹿にするな」と主張した人々の多くはインテリであり、彼らこそ地域格差の改善のカギを握る、
もっとも重要な層なのではないだろうか。

田舎者の「鬱憤」を代弁、とさきに書いたが、私の田舎に対する態度はルサンチマンにすぎない、
という意見も多数見られた。文章のトーンが呪詛に接近していたとすれば反省したい。

だがしかし、私が恥をしのんで個人情報まで晒しながらこうして「プロパガンダ」している理由は、
格差を告発するためなのであって、格差とは、とりもなおさず、不満以外の何物でもないではないか。
私は格差に怒っているのである。

そして、十代の頃は田舎に向けるしかなかった私の不満と怒りは、いま、田舎に対してではなく、
地域格差という現実、そして田舎の実情を無視しようとする態度、それらへと向けられている。


(後略。全文は記事元参照。全5ページ)


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