現在のJR秋葉原駅の1日の乗降客は24万6000人以上、JR東日本管轄の駅の中では9位に入る。上野や有楽町などよりも多い(2016年度、JR東日本調べ)。また「電気街」「アイドル」「アニメ」など秋葉原が人を呼び寄せるキーワードは豊富で、最近は外国人観光客も多い。

 では1960年代前半の秋葉原はどんな街だったのか。

 秋葉原は戦後、ラジオの部品、おもに真空管を売る露天商たちの集まりから始まった。しかし1949年にGHQが都市のインフラ整備のため「露店撤廃令」を出した際、代替地として提供されたのが、当時の国鉄の秋葉原駅のガード下の土地だった。ここに「ラジオストアー」「ラジオセンター」などが開店し、露天商たちはそこに収まった。今の秋葉原電気街の原型である。

 秋葉原が大きく進展するのは高度成長期である。1955年に東京通信工業(現ソニー)がトランジスタラジオを発売、ブームになった。このころから「三種の神器」と呼ばれる白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が普及。それはすぐに「新三種の神器」、カラーテレビ、クーラー、自動車(3C)に取って代わられた。開高が行かなかった秋葉原は、1960年代の高度成長期を体現する街だったのである。

生き残ったオノデン

 取材は、まず開高の「ずばり」時代から秋葉原で営業をしている家電量販店「オノデン」から始めることにした。「電器いろいろ秋葉原、オ・ノ・デ・ン〜」のCMをご記憶の方も多いだろう。

 創業は1951年、現在のJR秋葉原駅前のビルを建てたのは1962年のことである。当時の秋葉原の家電販売店は木造の3階建てみたいなのがほとんどで、8階建ての高層家電販売店は珍しかったらしい。

 オノデンの創業者の息子で3代目社長、小野一志さんへの取材は少々不躾な質問から入った。

――あの、秋葉原って昔はたくさん家電量販店がありましたよね。

「あったねえ」

――それが今はたくさん潰れました。そこで大変失礼な質問かも知れませんが、そのなかで1店舗しかないオノデンさんがなぜ生き残らはったんですか。

「なにもしなかったからだよ」

 間髪入れずにそう答えたあと、小野さんは「がははは!」と大笑いした。

「なにもしなかった」というのはどういう意味か。秋葉原が「電気の街」として頂点を迎えたのは、1995年のこと。パソコンOS「ウィンドウズ95」の登場である。「ウィンドウズ95」によってパソコンとインターネットは個人のユーザーにも使いやすくなり、多くの家庭にも普及していくことになった。日本の大手電機メーカーもこぞってパソコンの製造・販売に乗り出し、世界シェアでも重要な地位を占めた。

 秋葉原の家電量販店でもパソコンはよく売れた。右肩上がりの勢いで、量販店の多くは秋葉原を出て、郊外に出店していく。当初は好調だったという。

 だがすぐに、ヤマダ電機など、より大きな資本の家電販売グループが売り場面積が3倍4倍という巨大量販店をすぐ近くに建て、秋葉原系量販店は苦しくなった。つまり出店計画の失敗が多くの秋葉原系量販店が姿を消した理由で、オノデンは郊外のどこにも出店しなかったので、そのまま生き残れた、というのである。なぜ出店しなかったのか。

「商売を大きくしたいというのは、どんな商人にもある欲求だよね。うちが出店しなかったのは、密度が薄くなる経営はしたくなかったという創業者の精神です。マネージメントにしても接客にしても目の届く範囲内で商いをしたかったんですよ」

 オノデンの社是は「親切な電器店」というシンプルなものだが、これは小野さんが3代目社長に就任した1995年に付けたものだ。

「1960年代の秋葉原の売り方は客に商品説明なんかしなかったんだよ。みんな早く品物寄越せって、説明してたら怒られちゃう。早く商品をお客様に渡すことが、秋葉原で良いサービスって思われていた」

やがて商品が多様化・高機能化するようになり、やはり商品説明が必要になった。そこでメーカーが量販店に説明員を派遣するようになる。A社の派遣説明員はB社の商品について説明できない。だがオノデンは社員店員が接客するからそれができる。そこがオノデンが他の量販店と差別化できたひとつの要因だった。

「それでお客様にも信用ができて、電話で相談にまでのって、それでも『わかんない』っていうお客様のところには『じゃ行きますよ』ってなる。それを店員たちが『ああ、また今日も親切な電器屋さんやっちゃった』と言ってたんです。私がそれを字にしたのが今の社是です」
以下ソース
http://bunshun.jp/articles/-/4189