鹿児島から東京に行った者は、
ろくな最期を迎えていない
征韓論に敗れた西郷どん(自害)もそうだし、
大久保どん(暗殺)も
中村半次郎〜桐野利秋(戦死)
小松(志半ばで病死)

北京義和団の乱で、北京公使館籠城抗戦となった時
列強八カ国連合のリーダー的采配をふるい
その後の日英同盟の影の立役者とされている柴五郎は
会津若松の出身だった。大久保の死について
戊辰戦争では薩摩藩にさんざん痛めつけられたことを振り返り
「当然の帰結である」
と評したという。