矯風会のビッチビチ開祖の話

(女子学院OBさん)
矯風会の初代会頭である矢嶋楫子は私の母校の初代校長でもあるんですが、
甥の徳冨蘆花が女学生相手に講演した際に叔母の男がらみの武勇伝を
暴露しようとしたら壇上から引きずり下ろされたってエピソードが好きです

wikipediaより
肥後国上益城郡津森村杉堂(現・熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋矢島忠左衛門直明
・母鶴の1男7女の6女(末子)に生まれ、かつと命名された。極端な男性社会にあって
度重なる女児の誕生は歓迎されず、名付け親は10歳違いの姉である三女・順子で
あった。順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し
熊本女学校校長となった教育者である。また、順子のすぐ下の姉・久子(徳富久子)も同じく
横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、湯浅初子・徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んでいる。蘇峰は明治、大正、
昭和にかけての大論客、蘆花は明治、大正の文豪である。また、かつのすぐ上の姉つせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。
この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれた[1]。(略)
楫子の親戚で徳富蘇峰、蘆花の姪に当たる久布白落実は、楫子没後2年目に楫子の
告白・懺悔の文を公表した。それには若い頃書生との間で妙子を宿した過ち、
その妙子が母同様の不行跡をなしたことを告白。「婦人矯風会は強きが故に設立
したのではなく、弱きが故に、実に弱気が故に人間の行路を少しでも誘惑を減じ、
人世を歩み安くするために建てたものです」と懺悔する姿勢で綴られていた。

「アテクシと娘は股ゆるで苦労しました!なので他人の性行動を規制します!」だったのか___