>>98
んで、この流れで矯風会初代会長がとんでもない不倫ビッチだった話まで
例の風嬢支援の人に蒸し返されてしまったという(しかもソースが松沢呉一なのでネトウヨガーできない)


矢嶋楫子は私が書くものにはたびたび出てくる名前だが、
日本キリスト教婦人矯風会(以下、「矯風会」の初代会頭である(略)
安政4年(1858) 25歳で結婚。相手は兄から紹介された林七郎という武士で2度の離婚歴があった。
明治元年(1868年) 林七郎は酒乱で、それに耐えかねて、自ら離縁。当時、妻からの離縁はありえなかったため、一族からも非難される。
この時、先妻との子ども以外に、夫との間に3名の子どもがいたが、うち末っ子の達子のみ連れて家を出ている。この達子とともに、楫子は妹の家を転々とする。
明治5年(1872) 議員になっていた兄の直方が病気で倒れたことを契機に、達子を置いて上京し、そのまま東京に居着き、学校に通ったのちに教員となる。
東京に出てきて間もなく、兄の家で書生をしていた鈴木要介と肉体関係になる。鈴木要介は、東北出身で、楫子より10歳近く年下。故郷に妻子がいて、楫子もそれを知ってのことである。
明治9年(1876) 人目を忍んで4年間関係を続けていたが、43歳で妊娠。楫子は堕胎しようとするが、要介の希望で産むことに。
明治10年(1877) 要介は「ともに故郷に帰り、妾として戸籍登録をする」と申し出るが、楫子は断わり、仮病を使って学校を休み、練馬村で隠れて出産。
子どもの妙子を農家に預けたまま、楫子はそのことを隠して教師を続けた。(略)
明治12年(1879) 自らの不注意により、煙草でボヤを出したのを契機に煙草をやめ、洗礼を受ける。(略)
明治23年(1890) 桜井女学校と新栄女学校が合併して女子学院になり、楫子が初代院長に。
明治26年(1893) 日本キリスト教婦人矯風会を設立して初代会頭に就任して、本格的に禁酒運動、廃娼運動に取り組む。
大正14年(1925) 死去。享年93。
https://www.targma.jp/vivanonlife/2015/02/post900/