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戦後保守政治の裏側 「右派ポピュリズム」のコンプレックス
https://www.jiji.com/jc/v4?id=202007abe0001

戦後レジームからの脱却“劇場”

 安倍という「我らがリーダー」と一体化し、同質化した右派ポピュリズムは、たとえ幻想であろうと、
イメージであろうと、自分たちも「強者」になろうとする。「強者」であるということは、常に何かと闘い、
勝利しなければならない。そのためには「敵」が必要となる。左右にかかわらず、ポピュリズムは「敵」を求める。

 しかし、その「敵」は、「保守本流」だけではない。背後には、「戦後レジーム」をつくり上げた米国がいる。
だから極めて堅固なのだ。
 これも以前、指摘したが、安倍が東京裁判史観からの脱却をにおわせ、靖国神社に参拝した途端、米国から
拳骨を落とされる始末だ。米国との対等性なくして「真の独立」などあり得ないが、米国からの「自立」がいかに
難しいかは、ここで語るまでもあるまい。
 「右派」でも一部のインテリはその難しさを知っているが、右派ポピュリズムはそこまで求めはしない。
「戦後レジーム」を「米国製憲法」や「弱腰外交」という言葉に落とし込んで、安倍が「憲法改正」「拉致被害者奪還」
「北方領土返還」「韓国元徴用工問題は解決済み」などと叫ぶ姿に、ナショナルアイデンティティーの回復を期待し、
ストレスを発散させているのだ。

 「戦後レジームからの脱却」とは、その「痛み」を与えられたことに、一矢報いるための挑戦ではなかったのか。
安倍の「強さ」が「米国が許す範囲」のものにすぎないとすれば、まさに「脱却“劇場”」であり、「右派ポピュリズム」
を巻き込んで空騒ぎするための諧謔にすぎない。第2次安倍内閣発足以降、安倍自身からとんと「戦後レジーム
からの脱却」と聞かなくなったのは、それを自覚してのことだろうか。