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 関東軍に入隊してまもなく、中隊の初年兵が訓練場に集められた。そこには何人か中国人が杭に縛られていた。訓練を指導していた上官は新兵に、肝だめしに銃剣で突き殺せと命令した。

父は14歳のころから「義勇軍」で軍事訓練を受け、徴兵検査でも甲種合格で度胸がある男と上からも目されていたようで、最初に指名された。  

 「コリャー惨いと思った。軍隊は人殺しをするところで武器を持って向かってきた敵ならためらいなくやれたと思うが、無抵抗で縛られている人間を突き刺すことはできなんだ。それで抗命罪に問われて重営倉にされた」 

すると、他の「義勇軍」出身の新兵たちからも次々声が上がり、「そんな事が出来るか!」「そうだ、そんな卑怯なことができるかい!」「やめろ! やめろ!」と騒ぎ出し、とうとう刺殺訓練が出来なくなってしまったという。 

 旧日本軍では「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と絶対であった。兵卒は命令に対して疑問とか逡巡とか、まして拒否などというのは許されない事だった。

■不条理な軍法 

 父は「抗命罪」で重営倉に処せられた。抗命罪とは、上官の命令を拒否する事である。旧陸軍刑法第4章「抗命の罪」によると、「敵前なるときは死刑又は無期若しくは10年以上の禁固に処す」とある。
この事件のとき他の新兵も同調し、刺殺訓練が出来なくなったので、同章第58条の「党輿して前条の罪を犯したるもの」に該当する可能性があり、「首魁」は罪が特に重いので父は即刻銃殺される可能性もあった。 


 ――営倉とはどんなところか 

 「懲罰のための拘禁部屋で広さは3畳ぐらいだった。鉄格子の小さな窓が1つあって、真ん中に便器が置いてある」 

 ――独房にいれられてどんな事を考えたのか?

 「まあ、これで出世がパーになるという事だ」 

 ――どのくらいの期間入れられたのか?

 「期間は忘れたが、そんなに長くは入れられなかった。というのは、しばらくして、この駐屯地の近くに、出張か何かの会同で樋口の伯父さんが来ていたようなのだ。
それで部下の誰かを差し向けてわしが元気でやっているか様子伺いをさせた。そこでわしが重営倉になっていることが伝わった」 

 樋口の伯父さんというのは、父・郷敏樹の母の兄で、当時は第5方面軍司令官だった樋口季一郎中将のことである。父にとって地獄に仏とはこのことで、樋口の部下にあらためて抗命罪に至った理由を申し述べた。