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2)保阪正康が抱いた疑問

作家の保阪正康は、昭和40年代の後半から30年余にわたって昭和前期に生きた人たちの証言を求めて中国を歩き回りました。「日本の軍部」や「侵略の実態」について具体的に知りたいというのが動機でした。
彼の動機が正しかったことも、保阪正康が手に入れた素晴しい成果によって証明されています。

そのなかで彼が抱いた疑問が、上で述べた「日中両国政府の基本的なコンセンサス」の核心部分に関するものでした。保阪正康は、雑誌「現代」(05年7月号、【文献62】)でそのことを詳しく説明しているので以下に引用します。
 
この間に私はこの発言は解せないという言にいくつか出会っている。そのひとつが、周恩来首相が語ったとされる「ひとにぎりの日本の軍国主義者が行った罪過は、中国人民だけでなく日本人民もまた犠牲者であった」という言だった。

日本の一部の軍国主義者の扇動によって、侵略の尖兵となった日本人民も犠牲者である、との意味である。この発言は、昭和40年代、50年代には、日本の報道や研究者の論文でもしばしば引用されたために、
実際に残虐行為を働いた将兵のなかには、「われわれも軍事指導者に騙された被害者なのだ」と自らを冤罪にしている人物までいたほどだった。

なぜ周恩来はそういう発言をしたのか、私には不思議であった。周恩来はこの発言をいつ、どのようなときに行ったのか。平成3年(1991年)に刊行された「日本人の中の周恩来」(周恩来記念出版委員会)を繙いてみると、
中国史の研究家で、日中友好協会顧問の島田政雄が書いている稿が参考になった。島田によるならば、昭和28年(1953年)9月に、早稲田大学の大山郁夫教授と対談した折に周首相は次のように語ったというのである。

「日本の軍国主義者が外国に対して行った侵略の罪悪行為は、中国人民と極東の各国人民に損害を与えたばかりでなく、日本人民にもまた。今までになかったほどの災いをこうむらせました。(以下略)」
 
翌昭和29年には、日本の国会議員団や友好団体、それに学術文化視察団などが相次いで北京を訪れているが、そこでも周首相は同様の言をくり返した節があるし、次のような言も口にしていたというのである。