30万人説はとらず、外務省HPの数万人説をとると。。


南京事件発生直後に、日本の東京の外務省に事件の悲惨な情報が
入ったため、外務省の石射猪太郎東亜局長が事態を重くみて、
陸軍軍務局に伝達したが、その結果、現地の南京総領事が陸軍
によって突き上げられる始末であった。広田弘毅外務大臣より
陸軍大臣の杉山元への軍紀粛正の要請があり、1月に陸軍参謀
本部の本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の
中支那方面軍司令官の松井石根が日本に召還された。

1937年12月15日、A・T・スティール記者は
シカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”
(南京大虐殺物語)を世界で初めて報道した。
また12月17日「特派員の描く中国戦の恐怖 
―南京における虐殺と略奪の支配」、
12月18日「南京のアメリカ人の勇敢さを語る」と報道した。
1938年2月4日記事では、南京の中国人虐殺をウサギ狩り
(ジャックラビット狩り)に比して「ハンターのなす警戒線が
無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、
そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。
南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。
逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、
戦意を失っていた。その多くは武器をすでに放棄していた。
(略)日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく
捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、
処刑された。(略)日本軍にとってはこれが戦争なのかもし
れないが、私には単なる殺戮のように見える」と報じた。