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父の15年戦争 ローシャンのブログ

父は1937年、14歳のとき満蒙開拓青少年義勇軍に志願して満州(現中国の東北)に渡りました。以来15年間、戦争と革命に明け暮れました・・・


■刺殺訓練命令を拒否し重営倉

 父が関東軍に入隊したとき、初年兵の訓練で生身の中国人を刺殺するよう命令されたことを私が知ったのは、35年以上前のことだった。

戦前父は中国で何をしていたのか、父も同じことをやっていたのかという疑問だった。父の世代以上の周りの男は大抵兵隊経験者で、その多くは中国へ派遣されていたと聞いていた。

 この頃父は高等小学校2年で、日本軍の南京入城で日本中が沸きかえり、国民こぞって提灯行列をして祝った事を憶えているという。そのほかにも向井少尉、野田少尉による百人切競争も新聞が大々的に報道したので、
よく知っていた。今から見ると残虐極まりない殺人ゲームだが、当時の日本国内の雰囲気はプロ野球のホームラン競争でもみるような気分だったという。 

 南京大虐殺に関しては、1937年12月13日から翌年春まで、父は小学生で軍隊に入っていなかったので「シロ」だと安心した。
軍隊に入ってそういうことはなかったのか聞いてみると、しゃべり始めたのが関東軍に入ってすぐ、初年兵の訓練で中国人を藁人形代わりに銃剣で突き殺すことだった… 

 関東軍に入隊してまもなく、中隊の初年兵が訓練場に集められた。そこには何人か中国人が杭に縛られていた。訓練を指導していた上官は新兵に、肝だめしに銃剣で突き殺せと命令した。
父は14歳のころから「義勇軍」で軍事訓練を受け、徴兵検査でも甲種合格で度胸がある男と上からも目されていたようで、最初に指名された。  

 「コリャサー惨いと思った。軍隊は人殺しをするところで武器を持って向かってきた敵ならためらいなくやれたと思うが、無抵抗で縛られている人間を突き刺すことはできなんだ。それで抗命罪に問われて重営倉にされた」 

 私は大安心した。そのとき父に対して最初で最後の尊敬の念を覚えた。そのころ私は父が大嫌いだった。なぜかというと、父は金銭にルーズなのに商売好きで、
思いつきで簡単に事業を始めることが多かった。

閑話休題。父は中国人の刺殺を拒否した。すると、他の「義勇軍」出身の新兵たちからも次々声が上がり、「そんな事が出来るか!」「そうだ、そんな卑怯なことができるかい!」「やめろ! やめろ!」
と騒ぎ出し、とうとう刺殺訓練が出来なくなってしまったという。 

 旧日本軍では「上官の命令は朕(天皇)の命令と心得よ」と絶対であった。兵卒は命令に対して疑問とか逡巡とか、まして拒否などというのは許されない事だった。