【JOSF 929】東海ラジオの番組について語ろう16 PART2【1332kHz/92.9MHz】
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話の肖像画 歌手・さだまさし
産経新聞 令和5年 2023年7月1日〜31日
【1】「愛」があれば大抵のことは大丈夫
【2】「痛み」を「喜び」に変える「やばい老人」
【3】トークも曲も全てを出し切る
【4】露のウクライナ侵攻に怒り
【5】「はがき」に込めた熱き思い
【6】「小説」はもうひとつの表現手段
【7】生まれたときは大邸宅のおぼっちゃま
【8】うれしかった「カステラ」と、おやじ
【9】「花形タイピスト」だった母
【10】祖父は「スパイ」、大陸舞台に運命の出会い
【11】一家はシベリアから樺太、満州へ
【12】岸壁で祖母を待ち続けた父
【13】バイオリン抱え中1で単身上京
【14】高校受験に失敗「人生終わった」
【15】「2年10組」問題児が「師匠」のもと結束
話の肖像画 歌手・さだまさし
産経新聞 令和5年 2023年7月1日〜31日
【16】ついに「バイオリンの道」断念
【17】「グレープ」デビューはしたけれど…
【18】「精霊流し」大ヒット、でも騙されるな
【19】遠慮と負い目「グレープ」解散の真相
【20】シャレから生まれた「雨やどり」
【21】大ヒット「関白宣言」とバッシング
【22】映画「長江」で借金28億、みんなに助けられた
【23】続くバッシング…大仏さまの前で「前向きに」
【24】大好きな僕の故郷・長崎
【25】永六輔さん、山本直純さん支えくれた先輩
【26】震災と「風に立つライオン基金」
【27】「ケンカっ早いな!」と拓郎さんに言われ
【28】さっそく作ったWBC歓喜の歌
【29】日本語が下手になったら、この国は終わる
【30】僕が「もらったもの」全部、次へ渡す
歌手・さだまさし<29> 日本語が下手になったら、この国は終わる
《「僕はこの国を心から愛している」と著書『本気で言いたいことがある』(平成18年、新潮新書)に書いた。国家の基本となる外交・安全保障と教育についても一家言ある》
日本の外交・安全保障のあり方を考えることは、なかなか難しい。そもそも日本は完全な独立≠果たしているとはいえませんから。戦後ずっとアメリカの属国文化≠フ中にあったことは話しましたよね(4日付)。誤解を恐れずに言えば、安全保障をアメリカに頼り、「安価に繁栄を享受してきた」。これが間違いだったか、というと、悲しいけれど、真っ当な考えだったと言うしかない。日本は「戦争をしない」という前提で、角(かど)が立たないやり方をしてきた。「平和は自分たちの血であがなうしかない」と考えている人たち(国)に対して、日本は「だれかが守ってくれる」でやってきたのです。
ところが国際社会は複雑化してきている。僕たちは「自由と民主主義が一番である」と教わったけど、全体主義の強権国家が勢いを増しつつある。(国民の権利を考慮せずに強圧的なことが可能な)彼らの決定は「早い」。コロナへの対応を見ても分かるでしょ。ただ、日本の国民はそんな体制になることも、アメリカとの関係をそうした国との関係へと変えることも望まないでしょう。だったら国民に覚悟を問うべきなのに、まともな議論をしてこなかった。
このままでいいのですか? それとも徴兵制を敷きますか? 軍備強化のためにはいったいどれほどのお金がかかりますか? 核の問題はどうしますか? 経済の繁栄や今の豊かな生活を手放す勇気がありますか?―というような議論です。それをしないで来たというのは、日本人のずるさ≠ゥ、あるいは知恵≠ネのか?
強権国家になることも、それにひれ伏すことも望まないのであればですよ、ずっとずっと将来、エネルギー問題も解決して世界に戦争がなくなるまで日本という国がどう生き延びるかを、考えねばなりません。もちろん軽々に結論が出せる問題ではありませんが…。
(続く)
歌手・さだまさし<29>
日本語が下手になったら、この国は終わる
(続き)
《教育問題に対する関心も強い。若者たちが本(活字)を読まなくなったことにも教育問題が関係しているという》
「活字」が生き残るには、もう一度、教育からやり直すしかないと思う。学校教育、ことに初等教育のミスです。初等教育というのは真っさらなもの≠ノ最初に何かを乗せる役だから、本来は最も優秀な人材(教師)を投入しないといけなかったのに、それをやらなかった。
その結果、考えることを拒絶するような子供や若者を育ててしまったのです。言葉を簡略化し、安易な方向に進んでしまう。「早っ、遅っ、うまっ…」などというだけで全部が表現できるようなね。僕は「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」とずっと言い続けてきた。それが現実になってきているなと感じます。
今や、教師にも優秀な人材が集まらなくなっています。カネがすべての拝金主義、その多寡によって勝者、敗者とするくだらない価値観がまかり通るようになったからでしょう。そこに皆が巻き込まれています。
僕には、おカネを持っているだけで無防備でいられる感覚が分からない。僕が子供のころには、みんな貧しくて、服に継ぎあてをしているのが当たり前だったけど、誰も笑わなかったし、ちっとも不幸だと思いませんでした。それはもっと「別の幸福」があったから。
今の社会は幸福の価値観が変わってしまったのです。それを取り戻さない限り、日本語も戻らないと思います。 (聞き手 喜多由浩)
【7】生まれたときは大邸宅のおぼっちゃま
【8】うれしかった「カステラ」と、おやじ
・・・あるとき、おやじが闇金(やみきん)のようなところから借りた高利のカネをめぐって、ヤクザが家に怒鳴り込んできたことがありました。僕が小学校4年生のときでした。
《雅人さんは中国戦線で白兵戦の修羅場を経験したツワモノだ。商売は下手でも、ハラは据わっている。正義感が強くて、反権力。キライなものは一に警察、二にヤクザ…》
借りたカネはとっくに返しているんです。ところがヤクザは法外な金利を吹っ掛けて「まだ足りない、返せ」と脅す。おやじはそれが許せない。ついにキレた(笑)。
「静かなところで話しましょう」と自分の車にヤクザ3人を乗せ、郊外の山道へ。路肩がない崖スレスレのところを猛スピードでぶっ飛ばした。「オマエらみたいなヤツを生かしておいては世のためにならん。オレは兵隊帰りで怖いもんなんかない。一緒に死んでやる」って。
ブルったヤクザは「冗談ですよ」と平謝り。オヤジはポケットの有り金を出して「もうあこぎなマネはすんな」って。
・・・組員は立件されず、刑事から「佐田さんに感謝しろよ」と言われたらしい。早速、ヤクザの組長が紋付きの羽織袴(はかま)姿でお礼にきたのです。その手には紫の風呂敷で包まれた高級品のカステラが…。まだ切る前の焼きたてのヤツです。
組長は、土間に土下座して「これからはオジキと呼ばせてください」。僕は、えっ、おやじはヤクザになっちゃうのかな?と不安を覚えるとともに、頼むからカステラだけは突き返してくれるなって(苦笑)。
すると、おやじは、「ヤクザにはならんばってん、カステラだけはもろうときましょ」って。よくよく聞いてみれば、カステラはおやじの大好物だった(笑)。あのカステラは、うれしかったねぇ。
・・・例のヤクザの話はその後もあります。長崎市内の思案橋(しあんばし)を僕がおやじと歩いていたら、トラックの荷台に竹やりを持った連中が「おやっさーん」と手を振っている。「誰ね?」と聞いたら「ヤクザ、ヤクザ」って(笑)。どうやら出入りの途中だったらしい。結局、警察の一斉検挙で組は潰れたそうです・・・
【9】「花形タイピスト」だった母
《母親の喜代子(きよこ)さん(旧姓・岡本)は生まれも育ちも生粋の長崎っ子。戦前、戦中は中国・武漢の商社で花形の職業、和文タイピストをしていた》
母の祖父、(2代目)岡本安太郎(やすたろう)は長崎の顔役でした。港湾荷役を行う沖仲士(おきなかし)を500人も仕切っていた「岡本組」をやっており、その邸宅は、長崎市の鍛冶屋町の一角ほとんどを占める大きさだったそうです。賭場なんかも仕切っていた、いわゆる「俠客(きょうかく)」ですね。
けんかがあると、警察車両で乗り込んで行って「このけんか安太郎が預かる」。そして、警察も一緒に自宅で手打ち式をやって収める。安太郎の顕彰碑が大音寺(長崎市)の境内に残っていますよ。母の父、為吉(ためきち)は尺八の先生。音楽の素養があったのかもしれませんね。母はそんな家に育ったお嬢さんでした。
戦争中、中国戦線で戦ったおやじの戦友に、情報将校だった母の兄(さださんの伯父)がいました。終戦後、おやじは満州(現中国東北部)にいる母親(さださんの祖母)を捜すため、中国に残るつもりだったのですが、伯父がおやじを気に入って郷里である長崎へ連れて帰ることになったのです。
《そして、父、雅人(まさと)さんは戦友の妹(喜代子さん)と結婚することに》
・・・おやじはそのころ、材木店に勤める一方で、海水を炊いて塩をつくる仕事をやっていた。その塩と引き換えに漁師からもらった魚を毎日のように、おふくろの家へ届けに来るのです。だが、荒縄をベルト代わりにしているようなおやじに会うのがイヤで、おふくろは妹に応対させて居留守を使っていたらしい。「佐田さんは言葉も格好も下品だ」って(笑)。
仕方なく(?)おふくろは結婚することになったのですが、おやじをどう思っていたのやら…。おやじはおふくろのことが死ぬまで大好きでしたが、おふくろはそうでもなかった。僕には「いっちょん好かん」って。いっちょんは、長崎弁で「最高に」という意味ですからね(苦笑)。
歌手・さだまさし【10】
祖父は「スパイ」、大陸舞台に運命の出会い
《父方の祖父、佐田繁治(しげじ)さん(大正15年、53歳で死去)は島根県出身。日清戦争(1894〜95年)に従軍し、生涯の大半を台湾や中国、樺太など「外地」へ雄飛した人だった》
祖父は田舎の次男坊でね、兄は村長でした。日清戦争後に台湾で警官になり、匪賊(ひぞく)(抗日ゲリラ)の討伐任務に就いたらしい。「佐田巡査が匪賊を切り殺す」なんて書いてある記事を見たことがありますよ。
祖父は腕っぷしが強く、どうやらその後、軍に見込まれてスパイ(軍事探偵)になったようですね。「肩書」はいっぱいあって、新聞記者となったり、大谷探検隊(大谷光瑞(こうずい)が中央アジアに派遣した学術探検隊)の先遣隊としてウルムチ(現中国・新疆(しんきょう)ウイグル自治区)の調査をやったり、商社マンとして貿易に従事したり…。
僕が持っている資料では、中国の西域に日本の領事館をつくる動きにもかかわっていた。『新疆事情』(※中国人・謝彬の旅行記を日本の外務省調査部が戦前に訳して出版した本)には祖父の名前が2度出てきて、そこには軍事探偵と書いてあります。
家庭内伝説≠ニして伝えられている話はもっといっぱいある。日本のシベリア出兵(1918〜22年)の下準備として、中ソ国境地域を騒乱させるために馬賊操縦の任務にあたったのもそのひとつ。その馬賊を掃討するために日本軍が出ていく、というシナリオを描こうとした。工作資金として毎月、当時のお金で600円(大金!)を使っていたといいます。まぁ、これも、祖母から聞いた話でしかないのですけどね。
・・・《祖父母の出会いのきっかけはスパイの任務中、官憲に追われた繁治さんをえんさんが自分の店に匿(かくま)ったことだった》
このとき、祖父は辮髪(べんぱつ)(満州族=清(しん)の男性の伝統的な髪形)姿だったというから、中国人に化けて何らかのスパイ任務に就いていたんでしょうね。その男が流暢(りゅうちょう)な日本語を話したから祖母はびっくり。「日本人」というだけで祖母は匿ったのだ、そうです。
歌手・さだまさし【11】
一家はシベリアから樺太、満州へ
《ウラジオストクでスパイの任務中の繁治(しげじ)さん(さださんの祖父)をえんさん(祖母)が自分の日本料理店に匿(かくま)ったことをきっかけに2人は結婚する。えんさんは3度目、繁治さんも別に家族がいたらしい》
祖母が経営していた日本料理店は「松鶴楼(しょうかくろう)」という名前でした。当時のことですから、おそらくは廓(くるわ)も兼ねていたんでしょうね。店が入っていた建物(ビル)が今も残っています。
祖父と結婚したとき祖母は42歳。大正9(1920)年には2人の間に僕の父(雅人(まさと)さん)が生まれました。
《日本軍のシベリアからの撤退に伴い、一家もウラジオストクから日本へ引き揚げる》
僕の母が祖母から聞いた話によると、そのとき一家は、あの軍艦「三笠」(日本海軍・連合艦隊の旗艦で、日露戦争の日本海海戦で活躍)に同乗して引き揚げたという。やっぱりタダもんじゃない(笑)。
三笠で日本に着いて、お寺の一角を借りて暮らし始めたが、食わなきゃいけない。祖父の繁治は仕事を求めて、同郷(島根県)の政治家で首相になった若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)さん(1866〜1949年)を訪ねた。すると、(日露戦争の勝利で日本領となった南樺太の)海豹島(かいひょうとう)のオットセイ(群棲(ぐんせい)地があった)の権利をくれるという。
ところが、その話を祖母が嫌がったために、繁治はもう一度、若槻さんに頼んで、今度は樺太の森林資源の権利をもらったらしい。そこで一家は樺太に渡り、泊居(とまりおる)(南樺太中部西海岸)という街に住んで、製材の仕事に携わりました。
《当時の樺太では、針葉樹林が紙・パルプ用に適していることが分かり、王子製紙などが相次いで進出していた》
歌手・さだまさし【11】
一家はシベリアから樺太、満州へ
(続き)
ところが、そのうちに、祖父が心臓まひで亡くなってしまう。まだ53歳でした。
おやじ(雅人さん)は小学校まで樺太にいましたが、寂しそうな母(えんさん)の姿を見ておやじは「満州にでも行こうか」と提案した。昭和の初め、母子は時計店を経営していた親類を頼って今度は満州(現中国東北部)の北部に渡ります。朝鮮半島を経由して鉄道で満州へ行った旅費が(当時としては大金の)「107円」かかった、と聞いたことがありますね。
《大陸では次第に戦争の影が。昭和12(1937)年日中戦争が勃発、16年には対英米戦へ突入してゆく》
おやじも召集され、中国戦線で戦いました。中国語が話せたおやじは「ゲリラ」になって軍の情報収集活動に従事していたらしい。
おやじに聞いたところでは、本隊の2、3キロ先にいるのが「斥候(せっこう)(偵察隊)」、5キロ先が「ゲリラ」なんだそう。つまり、完全に敵中にいる。そこで怪しまれないように中国人の格好をして情報収集にあたる。つまりはスパイ任務。祖父の繁治もそうだったから、「父子2代のスパイ」という一面もあったのでしょうかね。
僕が中学2年のとき、おやじの戦友会についていったことがあった。戦友たちによれば、おやじはハラが据わっていて、危ないことも平気でやる。「佐田はロクな死に方はしないだろう。お前のおやじはとにかくすごかった。ちょっとおかしいくらいに…」なんていう話をさんざん聞かされました。
終戦後、生き別れになっている祖母(えんさん、雅人さんの母)を捜すために、おやじが中国に残るつもりだった話はしましたよね(9日付)。結局、戦友に連れられて長崎へ帰ったのですが、母子はその後、劇的な再会を果たす。その話がまたすごいんですよ。 (聞き手 喜多由浩)
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