http://www.asahi.com/articles/ASH3M72W8H3MPTFC01X.html
http://archive.today/FzzBv
上方落語を再興、消えかけた芸に命 桂米朝さん死去
篠塚健一
2015年3月20日00時55分

伝統を現代に生かし、消えかけていた伝統芸能に新たな命を吹き込んだ
人間国宝の落語家、桂米朝さんが89歳で亡くなった。
上方落語を全国区に押し上げ、大きな功績を演芸史に残した巨人は、関西を拠点に芸を愛し、信じ続けた。

人間国宝、文化勲章と輝かしい経歴を積み上げながらも、「よろしゅうおたの申します」。
生涯情熱を傾けた上方文化への誇りを示すようなはんなりとした関西弁、庶民的な人柄で広く愛され続けてきた。

若き日から幾度となく引き離されても、失うことはなかった芸への情熱。
戦後、東京一極集中になりかけた落語界で、上方の旗をしなやかに掲げて、確かな基盤を築いた。
演者であり、研究者であり、教育者。不世出のスケールで、東西落語が並び立つ豊かな文化を残した。

最初の扉を開いてくれたのは、12歳の時に亡くした父だった。
郷里の兵庫県姫路市から大阪に連れていってもらい、そこで見せられた落語や歌舞伎などの世界に夢中になった。
父の病死で閉ざされたが、心の空白を、演芸の書物をむさぼり読むことで埋めた。

俳句もたしなむ風流さを備えた少年は17歳で東京の学校に進み、寄席通いざんまい。
作家の正岡容(いるる)に認められ、若き寄席文化研究家として歩み出す。
しかし、時は明日をも知れぬ戦時下。19歳で軍隊に入隊することになる。
最後かと思い詰めて大阪の寄席に出かける。それが入隊まもなく、急性腎臓炎で療養生活に入る。
空襲で実家は焼け、療養所でも空襲警報が鳴る。

1945年7月31日付の日記に心境をこうつづった。
「これまでの命なりとすら思へり。ここを強く生き抜くぞまこと男の子の道にやあるらむ。強き力を与へくれるものぞほし」