ドイツ人民党(ドイツ語: Deutsche Volkspartei、略称DVP)ドイツ国民党とも訳される。

人民党は「実業界の親玉の政党」と俗称されたように議員の多数が大企業や銀行の取締役会や
監査役会の理事で占められていたが、政党政治においては大企業や銀行から一定の自立性を有した。

1923年1月にフランス軍によるルール占領があり、それに対してクーノ内閣は
「消極的抵抗」路線を取ったが、
それにより極度のハイパーインフレーションが発生した。
夏までにはクーノ内閣は完全に行き詰り、
代わってシュトレーゼマンを首相とする人民党首班内閣が誕生し、
共産党と国家人民党の左右両極を除く全政党の支持を受けた。
この内閣は3か月しか続かなかったが、ルール地方の「消極的抵抗」
の中止とレンテン・マルクによるマルクの安定という功績を残した。

その後シュトレーゼマンは、1923年から1929年の死去まで
第1次・第2次マルクス内閣、第1次・第2次ルター内閣、第3次・
第4次マルクス内閣と6つの内閣で一貫して外務大臣を務めた。
シュトレーゼマンはヴェルサイユ条約の遵守を旨とする「履行政策」を推進し、
西方諸国との親善関係を増進させ、1926年にはノーベル平和賞を受賞した。