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◇CIAは麻薬撲滅を阻止するためにウォーターゲート事件をでっち上げた
1977年にジャーナリストのエドワード・J・エプスタインはウォーターゲート事件の真相を暴露した。
ニクソンの国内委員会は、新しい計画でたがいに相手を出し抜こうとするアクの強い若者たちの集まりだった。
ゴードン・リディはこの仲間に割り込もうとして、「迎撃作戦」という野心的計画を思いついた。
合衆国に入ってくる麻薬の流入を単に監視するだけではなく、これを「迎撃」することを企画した計画である。

ニクソンは1968年の選挙運動中に「麻薬の源に対処する」ことを公約に掲げていた。
麻薬・マリファナ・劇薬関連大統領作業部隊がわざわざつくられてはいたが、なんの行動も起こしていなかった。
リディはニクソンの大統領法執行代行官エギール・クローをつかまえ、国内委員会に迎撃計画案を提出してもらった。

CIA長官のリチャード・ヘルムズもこの会合に出席していた。
計画は1970年7月にアーリックマンによりヘロイン取引主要対抗作戦として公式に承認された。
ただし、まともな計画というにはほど遠く、単に広報向けの駆け引きという代物にすぎなかった。

しかし、CIAの幹部連中は泡を食った。
CIAは麻薬作戦の上がりを資金としてアジアで厖大な作戦を行っていたが、それがフイになるかもしれないと心配になったのだ。
リディは国務省とCIAの役人たちとの会合について、こう述べている。

ビルマの黄金の三角地帯の問題で、ぼくがCIAにハッパをかけてやったよ。
そうしたら、リチャード・ヘルムズは「あの地域ではどんな処置もできっこないでしょう」と答えたね。

リディはODESSAすなわち「ほおじろ親衛隊直属機構」を設立した。
そして、準備が万端整っていまにも作戦が開始されそうになった。
そこでCIAはウォーターゲート作戦をでっち上げて対抗手段を講じることに決定した。
ニクソンの取り巻き連中を無力化できればと思ったのだった。

ジェームズ・マコードと他のCIA工作員たちが、大統領再選委員会本部と通りを隔てた向かいにあるCIA看板会社のマレン社のビルから外に出ていった。
ウォーターゲートビルへの侵入は1972年5月26日の予定だった。

しかしこの「高度の訓練を受けた」不法侵入のプロたちはビルのなかに入ることができず、手ぶらで5月27日に引き返してきた。
だが5月28日には侵入に成功し、民主党本部で多数の書類を写真に撮った。
その後、6月16日にもう一度侵入するように命令されたときには、完全にワナが仕掛けられていて、彼らは逮捕されたのである。

★P119 未来の歴史家は、ヴェトナム戦争は第二のアヘン戦争だったと記すだろう