“真の”コミュニケーションが取れているという確信は人間性に触れたというもの以外のなにものでもない。
地盤が異なろうがなんだろうがコミュニケーションが取れたなら、
その根底には本来的に合理的に扱い得ないものへの積極的価値の付与(それが人間性というものである)があるわけで、
持続的信念の継続を促す程の“他者”からの影響というものはその広い意味での宗教性
(合理的に扱い得ない云々というのは宗教の一般的定義に他ならない)を帯びた、
その意味における無意識レベルのコミュニケーションと言えるだろう
(注意が必要なのは、たとえば一方的に感動的景色を見て涙を流したという話はコミュニケーションとは言わないということ)。

むしろ表層的には「人間」であるはずの何かの「交流会」が鼻につくのは、
その中身が人間性に悖るものであるという無意識レベルから立ち上ってくる嫌悪によるものかのかもしれない。