国内政策上でも、フランスのルール工業地帯侵入は
きわめて大きな将来のための可能性をドイツに与えた。
わが民族の多くの者は、嘘に満ちた新聞の耐えざる影響によって、
フランスを相変わらず進歩と自由の闘士とみなしていたが、
急激にこの迷妄からさめたのである。

一九一四年という年は国際主義的な民族連帯の夢想を
わがドイツ労働者の頭から追放し、そしてかれらを突然、
あらゆる場所で生物が生物を食べて生きており、
弱き者の死は強き者の生を意味する永遠の格闘の世界へと連れ戻したが、
一九二三年の春もそれと同じ働きをしたのである。


1918年以来、時々やってくる有無を言わせぬ命令が来るのに先立って
いつも行われた談判のコメディーを見物しなければならなかったのは、
実に悲惨ではなかったか?

連中は、われわれを人々の笑いものにするかのように、
まず会議のテーブルに招き、
それからすでに仕上がっている決議や計画、
それについて確かに意見を言うことが許されはするが、
しかし最初から変更できぬものと見なさないわけにはゆかぬ代物を提案して、
全世界にわれわれの面目を失わせる芝居を提供したのだった。