自分一人の判断には自信がない分、世間の判断に頼りきろうとするのは通常である。
だがこの場合の世間とは、自分が普段接している人たち、
つまり所属する党派や宗派、教会、階級を意味しているにすぎない。


尊厳の感覚。それは幸福の根幹をなしており、
これと対立するものは、一時的な場合を別にすれば、
彼らにとっては欲求の対象とはなりえないほどである。


彼(ベンサム)が見落としているのは、厳密な意味での人間本性の道徳的部分だけではない。
彼は他のあらゆる理想的目的をそれ自体として追求することを
人間本性に関する事実としてほとんど認識していない。


高貴な人物がその高貴さによってつねに幸福であるかは疑問の余地があるかもしれないが、
その高貴さが他の人々をより幸福にし、
それによって世界は全体としてはかりしれない利益を得ているのである。


社会に監視される人は、いつも自分の本性に
従わないようにしているので、やがて従うべき本性をもたなくなる。
人間としての能力は萎縮し、衰えていく。
強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自分のものだといえる意見や感情をもたなくなる。
これが人間性の望ましい状態だろうか。


社会の初期の頃は、人の活力が強すぎて、人々を訓練し管理する社会の能力を超えていた部分があった。
しかし今では、社会は個性をほぼ押さえつけられるようになっている。
そして人間性を脅かすものは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。


数学の真理には特異な性格があり、論拠は全て一方の側だけにある。
反対意見はなく、反対意見への論駁もない。


人間の能力は知覚、判断力、違いを見分ける感覚、思考力のいずれも、
道徳感情すらも、選択を行うことによって鍛えられる。
それが慣習だからといって行動する人は選択を行わない。
最善のものを見分ける力も、最善のものを望む力もつかない。


ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、
その人が人間性の素材を豊富にもっているということである。
衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。

ジョン・スチュアート・ミル(イギリスの哲学者)