幸福はどこにあるのか?名誉を愛する人は、他人の行為の中にあると考える。
快楽を愛する人は、自分の感情の中にあると考える。
悟った人は、自分の行動の中にあると考える。


そんなことより、疫病と人間の避けられぬ運命である死について、考えるべきではないか?


死は感覚の休息、衝動の糸の切断、心の満足、
または非常招集中の休止、肉への奉仕の解放にすぎない。


幸福は、その人が真の仕事をするところに存す。


忍耐は正義の一種である。


良い人間のあり方を論じるのはもう終わりにして、
そろそろ良い人間になったらどうだ。


罪を犯す者は自分自身にたいして罪を犯すのである。
不正な者は、自分を悪者にするのであるから、自分にたいして不正なのである。


かつて私はどこにおきざりにされようとも幸運な人間であった。
「幸運な」とは自分自身にいい分け前を与えてやった人間のこと、
いい分け前とはよい魂の傾向、よい衝動、よい行為のことである。


ソクラテスはこういうのをつねとしていた。
「どんな理性的動物(をあなたがたはお望みか)?健全な?それともよこしまな?」
「健全な」
「ではなぜそれを追い求めないのかね」
「私たちはもうそれを持っていますから」
「ではなぜ戦ったりいい争ったりするのだろう」。


宇宙の自然の善しとすることの遂行と完成とを、
あたかも自己の健康を見るような眼で見よ。
したがってたとえいささか不快に思われることでも、
起こってくることはなんでも歓迎せよ。

マルクス・アウレリウス