精神の豊かな人は、まったくの孤独の中でも、
おのれひとりの想念や幻想にすばらしい楽しみを見出すことができるが、
愚か者の場合は、社交、観劇、遊山、宴会などが
入れ替わり立ち替わり絶えることなく続いても、
死ぬほどの退屈から彼を防ぐ手立てはないのである。


善、すなわち一切の幸福と一切の満足とは消極的なものである。
言いかえれば、それは単に欲求が鎮まり、苦痛がやんでいるということにすぎない。


信仰の強制は、不信仰を喚起するだけである。


時は、時をよく用いる者には親切である。


礼節とは、道徳的にまた知的に貧弱な互いの性質を
互いに無視し合いながら、非難しまいという暗黙のうちの協定である。


軽信というものは、善良に生まれついた人に具(そな)わる特徴である。


障害と闘って勝つことが、人間を幸福にするのだ。


泣くことは自分自身に対する同情である。


はなはだしい災難は別にして、善悪いずれの場合にも、
重大なのはその人にどんなできごとが起こったかということより、
その人がそのできごとをどう受け止めたか、
つまり、さまざまな観点から見たその人の感受の仕方や度合いである。


なんびとにもせよ、まったく突如として、人は生きているのである。


我々の肉体が衣服に包まれているように、我々の精神は虚偽に包まれている。

ショーペンハウエル