【動画】日本語も交えてインタビューに応じる田中さん
https://mainichi.jp/movie/video/?id=119523531#cxrecs_s

シベリア抑留
露に生存者 北海道出身の89歳
田中明男さん
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毎日新聞2017年6月5日 06時30分(最終更新 6月5日 10時37分)
https://mainichi.jp/articles/20170605/k00/00m/040/100000c

「もう一度日本に」
 第二次世界大戦末期の1945年に旧満州(現中国東北部)でソ連軍に捕まり、シベリアで抑留された日本人男性がロシアで生存していることが新たに判明した。抑留者のほとんどは56年12月までに日本へ帰還したが、外務省の資料によると、約1000人がソ連にとどまったとされる。その男性が、初めて日本メディアの取材に応じた。「戦後、一度も日本に帰っていない。死ぬまでにもう一度日本をこの目で見たい」と話している。

 取材に応じたのは、北海道遠別(えんべつ)村(現遠別町)出身の田中明男さん(89)。10代で陸軍に入り、満州の関東軍に送られた。戦時中は機関銃を撃つ兵士として中国人の部隊と戦ったという。

 大戦末期、満州に侵攻したソ連軍に捕まり、極東ハバロフスクの収容所で森林伐採の強制労働を強いられた。収容所には1000人以上の日本人のほか、多数のドイツ人捕虜がいた。抑留者の帰還が始まったころ、かつての上官に「兵士が生きて帰れば『裏切り者』として処刑される」と言われ、ソ連に残ることを決めたという。

 収容所から解放された後の60年代にソ連国籍を取得し、船員や集団農場の牛の飼育係として働いた。今はサンクトペテルブルクの南約60キロの小さな村ポギで、年金生活を送る。近所の住民から「達者なおじいさん」と親しまれている。

 田中さんによると、80年代にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の日本総領事館を訪れ、「日本に帰りたい」と訴えたことがある。田中さんが満州に渡る前、父は北海道の登別温泉で旅館経営をしており、3歳年下の妹もいた。だが、総領事館から「お父さんはすでに亡くなっている。妹さんの連絡先は不明」と告げられたという。

 現在の田中さんは「ありがとう」「忘れました」「座りなさい」などの片言以外、日本語を話せない。「田中明男」の名前を書いてもらうと、「田中明」までは正確に書けたが、「男」は「口」に「力」だった。父トミキチさんや妹のキミコさんの名前は覚えているが、漢字では書けない。

 田中さんの存在については露紙「論拠と事実」が4月初旬に報じた。記事をインターネットで読んだ日本の人々が「訪日を実現させたい」と支援を申し出ている。田中さんは「とてもありがたい。生まれ育った遠別や、父が働いていた登別温泉を見ることができれば幸せだ」と話している。

 抑留生存者を巡ってはロシア南部カルムイキア共和国に住む中川義照さん(90)=山形県出身=が2006年に日本への一時帰国を果たした例がある。【ポギ(ロシア北西部)で杉尾直哉】

 【ことば】シベリア抑留

 1945年8月以降、ソ連(当時)が旧満州(現中国東北部)などにいた日本人約60万人をソ連やモンゴルに移送し、最長11年間抑留した。飢えと寒さ、重労働のため約6万人が亡くなった。56年12月に抑留が終わった後、およそ1000人がソ連領にとどまったとみられる。

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