0356文責・名無しさん
2018/11/09(金) 00:43:14.99ID:0iK0p3NC0かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。
王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。
農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。