1949年10月1日、中華人民共和国の建国式典において、整然と編隊を組んだ飛行部隊が天安門の上空をかすめるように飛んだ。
かつて「粟飯プラス小銃」という厳しい条件のなかにあった解放軍が、こんなにも速く優れた戦闘能力を身につけた空軍を所有す
ることは奇跡だと、世界は驚嘆した。この奇跡の陰には、数多くのエピソードがある。

 王海さんは1946年6月、東北民主連軍航空学校に入学した。入学してまもなく、主任教官の名は林保毅であると聞いたが、この
林教官がかつて日本の「帝国軍人」であったことは知らなかった。
 林教官は本名を林弥一郎といい、もとは関東軍第2航空部隊第4練成飛行隊の隊長であった。日本の敗戦後、彼の部隊は東北民主
連軍に包囲され、武器を引渡して投降した。その後、部隊に所属していた軍人たちは農家に分宿し、厚遇を受けた。

 農民たちは、日本人は米が好きだと知ると、モミや野菜、鶏まで担いで持ってきた。林さんは、これらのモミが来年の種モミで
あり、民主連軍と農民たちはコーリャンやトウモロコシを食べていたということを後で知り、日本の軍人として、深く感動すると
ともに、内心忸怩たる思いだった。