【兄弟漫才】若井はんじ・けんじ
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若井はんじ・けんじは、日本の兄弟漫才コンビ。戦後の高度経済成長期に活躍した。
1959年の「デイトチック・ヤング」を経て、1960年に「若井はんじ・けんじ」と改名。
テンポの早いやりとりで売り出し、「頭の先まで、ピ〜コ!!ピコ!!」や「ゴメ?ンネ」のギャグが流行語を生んだ。
当時上方柳次・柳太とは同世代でライバルであったため、上方柳次・柳太は柳柳と呼ばれ、はんじ・けんじははんけんと呼ばれしのぎを削った。
1964年からはMBSテレビ「ダイビングクイズ」の司会を務め人気を博した。
1976年、はんじが胃癌で病死。
上方柳次・柳太の柳太も死去(1979年)し、上方柳次と若井けんじでコンビ結成も「ツッコミ同士」ということもありパッとせず解散。
その後は借金まみれ、様々な事業に手を出すもうまくいかず、ファンの仲介でスナックのマスターとなり、自分の店を開いたり、シャッター製造会社を設立するなど、金まわりもよくなっていた。
けんじはファンに励まされて、1983年、東大阪市議初当選も後に膝を悪くする。
1987年に出馬も膝の影響で選挙が思うように行なえず落選、芸能界に復帰した直後自動車事故で亡くなった。
メチルアルコールで父親が死んだり、ヤクザに刺されたり、借金まみれになったり、いかにも芸人らしい人生だったな。まだ存命でもおかしくない年齢なのに凄く昔の人って感覚だな。 若井はんじ(わかい はんじ、本名:若井輝雄、1933年10月7日 - 1976年2月6日)
はんじの妻は「大美劇団」で女同士の漫才をやっていた元座長、はんじ・けんじ売れ始めたころに引退。後に離婚。
ボケ担当。
愛称は「はんちゃん」。
若井けんじ(わかい けんじ、本名:若井修身、1935年4月18日 - 1987年11月26日)
けんじの妻は両親の荒川久丸・千夜子と親交があり無名時代に世話になっていた元芸人で興行師の河内家目玉の縁でその娘の加茂川ちどりと結婚するもすぐに浮気で離婚、電気屋の娘と再婚[1]。
幼いころの病気で鼓膜が破れ右耳が全く聴こえなかった。
ツッコミ担当。
愛称は「けんちゃん」。 >>7
生きていれば、はんじが77歳。けんじが75歳。
若くして亡くなったんだね・・・・・。 はんじにとって、たぶん最後の出演と思われる舞台。
微かに覚えてるよ。
はんじがあまり元気がなかった。
しばらくして、新聞にけんじのコメントが載っていた。
「兄は今病気で入院中で・・・・・」
そしてはんじが死去。
あっけなかった。 市会議員までは知ってたけど・・
昔の桃山病院の前に(生野区玉造筋)
若井はんじだかけんじだかの店というのが長いことあったように思う ダイビングクイズ・・・
日曜はいとしこいし師匠の「がっちり買いまショウ」と
「ダイビングクイズ」だったなぁ。 >>17
カラオケスナック
大阪はそんな店はたくさんあるぞ
全然知らん人の名前を書いてあるのも多い
ついこないだまで「大月みやこの店」と書いた
汚い喫茶店があったが、あれはどうなっただろう? >>20
カラオケスナックか。
一度見たかったわ。 大月みやこはね、上六の旅館の娘さんで
店も上六にあった、30年以上前に歌手としてデビューしたときぐらいに
できたように覚えているが、入ったことはない
まあ、テントにそう書いてあるのだけど、他人が経営しても
テントは張り替えないことも多いから、どうなんだろ
あとで、見に行ってきます 見てきました
良く見ると、○繁ビル(とは名ばかり、実はモルタル三階建てのアパート)
の一階でした。○繁というのはご生家の屋号だから本人に関係ありそうですね
売れてないときは店に居たかも知れんね
今度けんじの店跡も見ときます
遠いから少し時間かかるだろうけど 若井けんじの店跡、なくなってました
場所は昔風にいえば大阪桃山病院の正門前
今は、大きなショッピングセンターになってるその前の
玉造筋に面したへんな三角地です
紺色のテントの喫茶店の二つとなりの空き地がそうなんじゃなかったかと・・
話題変わりますが、若井ぼんはやと・こずえみどりは弟子だったんでしょうか
どうもお行儀の悪い人が多かったんじゃないかと
ぼんはやとのレゲエやってないほうが安もんヤクザそのものの格好で
歩いているのを見たことあります ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています