>>857
また、ややこしい事を書くよ。ゴメンね。
先ず「ノーサイド」というシニフィアンと、あなたが言いたいであろうシニフィエは分かるような気がする。
ポスト構造主義哲学者で現在の精神分析の主流であるジャック・ラカンは
自分という主体・当体の統一感が無い幼児期から
自身の統合が認知できるステージに成長すると語る。(鏡像段階)
しかし身体的統一に向かった主体は、そこにも安住する事は出来ない。
想像界から象徴界(言語使用と、その使用から始まる喪失と抑圧)へと向かい、そこに何某かの心の慰めを得てしまう人間が
偶然にも現実界を覗き見たり、触れてしまう時、人間は精神病になると語る。

仏教には怖いところがある。
対立思考をリセットしノーサイドに持ち込む、前段階において
そのキッカケ、行動原理となる現実界への眼差しと言うものが必ずある。
禅宗で言う禅病という奴だ。
現実界はカミュ言うところの宇宙に存在する奇怪なる植物の様相を冷徹な眼差しで見てしまいう事だ。
簡単に言うと、見たく無い物を見てしまうという事だ。しかし、それが現実であり、真実なのだが。
この段階を上手く乗り越えて行ければ悟れる(ノーサイド)のだろうが
明徹なる知性の眼差しと、強靭な心が無ければ、とても危険な物だとも思うのだ。

畢竟、主体と指導者含めての知性に依存するのでは無いだろうか?

とても面白い意見。ありがとう。