日蓮ってver.50
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前スレ日蓮ってver.49
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/koumei/1561547295/
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/
創価学会の教義と日蓮仏法について、真面目に語るスレッドです。
創価学会擁護の論客もふるってご参加下さい。
コテハン推奨。sage推奨。「荒らし」は無視で。
スレが荒れる原因になりますので、暴言や挑発、嘲笑、語尾のwwwはNGです。
スレ違いの話題はほどほどにして下さい。
初心者の方も教義についての質問があればお気軽に書きこんでください。 >サンスクリット語を学んだ人は、議論を逸らすのが得意になるようですね。
自ら学ぼうとしない順応主義者にとって
伝言ゲームの様な
言質言明は
自分自身を汚してしまう事を知っているからね。
フランシスベーコンの言う「劇場のイドラ」は
知的好奇心無き者に置いて、自己欺瞞にしかならない。
そんな人は、そんな人でよかろう。
どうぞ、ご自愛下さい。 そうだ、この際言っておこう
創価学会を始め目の前の法華経(多くは鳩摩羅什だろうが)
と言うテクストを読むまでは、その方の知性により、読める所は読める
だが、しかし
目の前のテクストの周辺にあるコンテクストを読まない人いる。
読めない人がいる。
更に、そのコンテクストの存在さえ気づかない人もいる。
責任を引き受けて理論武装して語れない者は
安易に聖教新聞や大白蓮華を他者に勧めないでいただきたい。
宗教的な部分にだけ語る。
何故、みんな自己欺瞞の共感ゲームにコミットする順応主義者にならなければならないのか?
何故、みんな論証出来得ぬ宗教の奴隷にならんなければならないのか? >>807
>サンスクリット語を学んだ人は、議論を逸らすのが得意になるようですね。
というより、議論を逸らすしか能のない馬鹿がサンスクリットを読める振りをしているようだ。
あなたも分かった上で言ってるんだろうけど。 >>784 >>788-789
>天台で学んだ日蓮さんが説く文底に秘沈された極意は、所詮、五蘊
レスありがとうございます。
五蘊は釈尊が初転法輪で説いた有漏の法で、法華経譬喩品でも触れられてます。
諸天が釈尊に向かってこのようにいいます。以下趣意。
“世尊は昔、五蘊の法を説かれましたが、今またこのような未聞の深妙なる法を聞き
歓喜している”と。
法華経譬喩品より
「昔、波羅奈において四諦の法輪を転じ、分別して諸法たる五衆の消滅※を説き
今、また最妙の無上の大法輪を転じたもう。この法は甚だ深奥にして能く信ずる者
あること少(まれ)なり。われ等は昔より来(このかた)、数(しばしば)、
世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾てかくの如き深妙の上法を聞かず。
世尊がこの法を説きたもうとき我らは皆、随喜するなり。」
※五衆の消滅=(苦悩の根源である)五蘊の生起と滅亡
つまり五蘊は昔、聞いたことのある法で、法華経は未だ聞いたことのない法門であると。
その法華経の文底に秘沈された真髄が五蘊であるはずがありません。 >>784 >>788-789
つづきです。
>日蓮さんが言う文底秘沈は、
>日蓮さんが天台のお経をきちんと勉強しなかったからこそ出来上がった妄想教義である。
天台教学で文底秘沈の極意は五蘊といってるのでしょうか?
聞いたこともありません。文証をお示しいただけますか。
>般若心経に照らせば、どこまでも取り除き去るべき塵、芥のひとつでしかない。
あまり法華経をご存知でなく、理由も考証も示さず思い込みで結論付けられてるように思います。
法華は大海の如し、です。
信解品で、舎利弗や解空第一の須菩提ら声聞の弟子たちがこういいます。趣意。
“長い間、世尊の説法を聞き、全てのものは本体がなく空であり、形状もなく無相であり、
作為がなく存在することを知り、悟りの境地に達したと思っていたが、その実、
求道心を失い耄碌しておりました。今、思いがけず無上の法を聞き歓喜しています。”
般若心経に書かれているようなことは、法華経では声聞のために説かれた古い教えであり、
悟りと呼べるものではないが、そのような二乗でも法華経においては成仏できるという
二乗成仏が説かれています。 >>785
二処三会といいます。
法華経の説法を前霊鷲山会、虚空会、後霊鷲山会の三期に分けたもので、
それぞれ悟り以前の現実、悟りの世界、悟り以後の現実を表しています。
過去・現在・未来の三世。生死不二。九界即仏界などの意義があるようです。 >>786
>弘法大師が言うには法華経には口密だけあって身密と意密がない。
法華経を弘めると難や迫害に遭うと勧持品に書かれており、
日蓮大聖人は、法華経を身読したからこそ難を受けたのです。
また創価の歴代会長もことごとく難に遭ってます。
空海の時代にはまだ日蓮はいませんでしたし、像法時代に中国で慧思という人が法華三昧し、
四安楽行(身、口、意、誓願…のいわゆる折伏)を実践したようですがそれほど広まらなかったようです。
>効能書きだけで丸薬がないようなものだと感じるのももっともである。
>と、般若心経を勉強している人は感じると思います。
丸薬は、南無妙法蓮華経であり御本尊です。
日蓮だからこそ顕しえたのです。 >>787
>さっぱり読まない
他経も概要くらいは知っていこうと思ってますよ。
機会を得てできるだけ調べたり考えるようにしてます。
787さんも批判する前に法華経、御書、人間革命を読んでみて下さいね。 >>813
悟りって何?
どっかからの引用じゃなくて、あなたの内に感じる状態で語っていただけますか? >>792
レスありがとうございます。
単なる個人的な見解(我見)か古代インド哲学由来のスピリチュアル思想と思います。
その考えをどのような人々が支持しているのか、誰の影響を受けているのか、
そして長いのでもう少しシンプルかつ文証・出典を示していただけるとお返事がつきやすくなるかと思います。
自己満足で書かれているのならその限りではありませんが。 >>797
>仏教は現世利益を説かない。
>それを是とする教義を立てるのは勝手だが、それはもはや仏教ではない。
現世利益は功徳、福運という意味です。仏教の考えですよ。
>したがって日蓮教のように「日蓮仏法」などと仏教を詐称することは許されない。
日蓮仏法こそ民衆救済の仏教の本流であり、世界宗教たりえるのです。 >>816
>悟りって何?
>どっかからの引用じゃなくて、あなたの内に感じる状態で語っていただけますか?
感覚的にいうと、歓喜、充実、よしこうしようと一念が定まった状態。
その逆は、停滞、迷い、苦しみ、空転など悶々とした状態。
このような生命(いのち)の状態です。わかりやすくいうなら心の様相。 >>819
じゃあ、悟りが心の様相ならば、悟りとは感覚や感情をコントロールすることですか?
歓喜、充実、よしこうしようなどの感情を良しとして
その逆である、停滞、迷い、苦しみ、空転など悶々とした状態であることを忌避することですか? >>820
816で、あなたの内に感じる状態で、といったので感覚的なものを答えました。
しかしそれが、「悟りとは」という話になると感覚や感情をコントロールすることに留まるものではありません。
忌避というか、ほっといたらそうなります。だから題目を上げて悶々を晴らすんですよ。
数分で済む時もあれば、1時間以上かかる時もあります。
よかったらあなたも試してみてくださいね。 >>821
それでは、題目が歓喜や充実などの特定感情を促すということでいいですか?
ただ、それでは一種のいい感情を得たいがための手段でしか無いような気がします。
歓喜、充実、よしこうしようという感情を含め、全ての感情は相対的なものだと思います。
例えば、もし適温の湯ぶねに浸かっているようないい気分の状態があるとします。
もしその状態のままで、その状態しか味わわなければ、その充実したいい気分の感情が当たり前。
そのいい気分が当たり前ならば、それが普通になってしまう。
ななぜならその感情しか知らなくなるから。
よって、歓喜や充実といった感情を味わい続けると、歓喜や充実に特別なありがたい付加価値感は無くなります。
同じ麻薬を接種し続けると、麻薬を覚えた最初の気持ち良さは薄れていくように。
例えを加えると、人間は呼吸をするのが当たり前です。
空気が薄くなったり空気を吸えない状態になって、初めて空気を吸える歓喜を味わえます。
空気が吸えないという苦しみがあって初めて、空気を吸える充実感を味わうことが出来ます。
歓喜や充実という感情は相対的なものです。
よって、歓喜や充実の反対である苦しみや不足があってこそ、歓喜や充実という感情も成り立ちます。
なので歓喜や充実は、停滞や迷いという反対感情を必ず必要とします。
人間感情というのは全て、陰陽と同じで必ずセットになっています。
なので、歓喜や充実という一方のみを求めてしまうのは人間の近視眼的な快楽を欲しがる動物欲だと思いますがいかがでしょうか?
もし悟りの感情があるとしたら、喜怒哀楽総てが必要で繋がりあっておるものとして、全ての感情を讃えて愛でる心の状態だと思いますがいかがでしょうか? >サンスクリット語を学んだ人は、議論を逸らすのが得意になるようですね。
要素還元主義ですね。
>というより、議論を逸らすしか能のない馬鹿がサンスクリットを読める振りをしているようだ。
個人の独善的審美的価値観ですね。
もう一度書きます。
何故私とあの人の考えや表現が違うのか?と考え始めるのが
あいつがこんな事を言ってる。何故だろう?ちょっと知りたいよ!
と考え始めるのが人間の教養です。
それ以外の感情が充填された言質や思いを引きずるなら
それは、知の低下と教養の崩壊を招くだけです。
人間の認知バイアスで、「あいつが言ったから受け入れない。聞きたく無い」
という物は誰にでもあるんです。
ただ、それをやり続けたら子供のままなんですよ。
これを理解できない人が多いから創価学会を始め日蓮正宗や顕正会の信者の様に
自身の自由意志と自主独立性を自ら、止めてしまう事を承認欲求とし自己実現としてしまうんですよ。
そのままでは、いつまでたってもお客さんのままなんですよ。
「人間とは自分が持っている理性、それ以上の理性を決して欲しない生き物である」
(デカルト 方法序説より)
お客さんのままで生きる事の自己欺瞞に気づいて自ら動き出した時
一度破壊された公共性から共同性次元に、人間は再起出来るのです。
創価学会や宗門が言葉巧みに語るのは「公共性」では決してなく「イリュージョン」です。
資本主義社会と言うバトルフィールドに強制参加されし私達は
戦略を持たなければ、戦略を持つ奴らに一生搾取されてしまうものです。
ラットレースから抜け出そうと頑張ってる気になって、その実ネズミの回し車を回し続けているだけなのです。 間違い
>一度破壊された公共性から共同性次元に、人間は再起出来るのです。
訂正
>一度破壊された公共性から共同性次元に、人間は「再帰」出来るのです。 >>821
己がメタ認識のもと題目を挙げて充実感を持つのなら、それも良かろう。
己がメタ認識のもと庭の雑草を刈る充実感も良かろう。
ただ誰からも強制される事なく
誰もやらないから住民が使うゴミ集積場の周りを私が掃除をしよう
とする人の初期衝動はCALLINGだ。 でも、やるんだよ!
と言うのは大人の考えです
何故それに気がつかない人が多いのだろうか
私の言う大人とは世間一般が言う大人とは違います
自分から責任を担って、義務を背負う人の事です。 >>817
仏教の中観思想と唯識思想の観点から。
文証とか出典には私は興味がない。
重要なのは思想全体の把握と、古い思想の場合は現代に置き換えて表現し直すことと自分は捉えている。
あえて出典を示すなら
超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―
南直哉
この内容に基づいているわけではないが、自分の考えに近い。 >>827
>超越と実存―「無常」をめぐる仏教史― 南直哉
私も好きな本です。
教義教条よりも分析哲学的実存主義としての
仏教の視座を教えてくれますよね。 >>672
辻説法でちょっと思い出して、グーグルマップで、
日蓮上人辻説法跡から、鎌倉御所の正門跡の
若宮大路幕府舊蹟碑を距離計測してみると、
だいたい3百メートルくらいかな、北条執権邸までは4百メートル。
コンビニ同士のお店の間隔だよね、
つい目と鼻の先に見えるぐらいな。
それで鶴ケ岡八幡宮につながる若宮大路ではなくて、
それと平行に走っている裏の小道に立って
なぜか説法をするとこがポイントなんだけど、
なんで若宮大通りじゃないのかといえば、
現代の状況では御所跡がないからよくわからんけど、
でもこの若宮御所正門の碑からみると、
日蓮辻説法の小道こそが、御所に出仕する御家人や、
文官、僧官、または貴族たちの通り道になってて、
そこで辻説法のパフォ―マンスをやってるわけで、
日蓮師匠のすぐ前を通って御所の中に消えてゆく。
しかもこの場所は、鎌倉名所旧跡の解説によると、
当時の鎌倉の中心街で、武家や商家が立ち並ぶ、
一等地になっていたらしく。。。
※※
もうわかりますよね、日蓮説法パフォーマンスの
ターゲットがいったいどんな階層の人たちなのか、
やっぱ日蓮師匠はかなり上昇志向の強いお方みたいで…。 スプレー缶を持ってグラフィティ・ストリートパフォーマンスとして
タギングする自己顕示欲が強い表現者が日蓮の本質かもしれない。
バンクシーをありがたがる小池百合子の様な人は今も昔も一定数いただろう。
私が言っているのは、バンクシーの表現者としての価値をないがしろにして
「投資の対象や金銭的価値に転ずる作品」として
バンクシーをありがたがる人の事だ。
報道で知っている様に、バンクシー自身は、自身の作品の取り扱い自体を
チクリと揶揄する表現者でもある。無言で皆のパラドクスを引き出す。
それ自体もバンクシーの作品である。 >>829 それでこの日蓮上人説法の碑は、鎌倉御所正門前の小道で、
たぶんゲリラ的にやってたんだろうな、とは思うけど、
もしこの場所で実際に説法パフォーマンスを
やってたのなら、とうぜん目の前を通り過ぎる鎌倉の
有力者の目にも入るはずなんで、
興味を持つ人物もいたはずよ、で自分の従者に言いつけて
あの坊さんの説法の内容を聞いてきてくれ、
と指示したら、帰って来た従者が、あのお坊様は…、
法華経だけがこの世で唯一正しく、念仏は邪教で、
すべての人が法華経に帰依しないと、この世が滅びてしまいます。
とかなんとかの内容を、とーぜん報告するわけで…。
※※
その結果どーなったかというと、鎌倉幕府の公式の、
文官、僧官、お寺の住持、とかの役職に就いたという話は、
日蓮御書にはまったく書かれていないので、
この見え見えでこれ見よがしな就職活動の、路上説法パフォーマンスは、
すべて失敗に終わったんじゃないでしょうかね?
そうすると、身内知り合いからその原因について突っ込まれますから、
なんとか言い訳を考えなきゃいかんわけで、そのときに、
鎌倉中が、自分の才能に嫉妬して恐れているから、
公職に採用しないで、この日蓮に嫌がらせをしているのだ、
という、みょーな理屈を思いついたんじゃないのかなw
日蓮御書マニアの立場で言わせてもらえば、日蓮師匠は
誤字脱字、引用のまちがいデタラメさが多過ぎるよな、それは
公的な場所では忌み嫌われる事で、鎌倉時代も現代と同じじゃないかい? >鎌倉時代も現代と同じじゃないかい?
日曜日の上野駅前に
「神州 皇国 大日本にあだなす不逞の輩を一人残らず殲滅せん!」
と軍歌を流しながら車を連ねて来る方々いらっしゃる。 >>675
これはもうわかってますよ、禅寺で師家とかいって
ふんぞりかえってる人たちも、禅話の意味がわからないのよ、
だから、どんな意味ですか? と質問されると困るじゃん。
そこで対面を保つために、禅話を禁書あつかいにして、
俗物でもわかるカタチだけの座禅修行をしろと
強制してるんでしょうね。
>>693
頭破作七分は、もとはインドのおとぎ話だったらしく、
人の頭には七つの蘭のつぼみがあり、小鬼が住んでいて、
その鬼に一つ食べられると体調不良、三つ食べると重病で、
全部食べられると人は死んでしまう、というそんなお子様むけ話で、
種々御書の最後の方に書いてある。
>>699
これはナイス喩えで、なかなかいいなw
多宝塔はサンダーバード1号、空中浮遊の菩薩はジェットパック、
地面から湧き上がる上行菩薩は舞台のせり上がりの仕掛けだもんね。
>>703
戦後にできた進駐軍監修の教科書も昭和二十七年制定でしょ、
ここから立正安国論の幕府提出おとぎ話が始まってて、
この年に創価学会はアメリカさまから、なにか特権的な地位を
与えられたんでしょうね、反共産主義の一つの勢力として…。
>>706
鈴木大拙和尚は、わかってない人かな、それ以上は言わんけど。 聖教新聞や大白蓮華を始め御書を読む人は多いのですが
それぞれの意味と言うか、「こういう意味が欲しい。その根拠を見つけたい」
と順応主義者としの立場を絶対崩さず
多義性と多様性に目をつぶる学会員や日蓮正宗、顕正会の信者がいる。
実存主義的にも、構造主義的にも、ポスト構造主義的にも
それらは畢竟「去勢」である。 >>726
常好座禅(座禅しろ)、菩薩の非親近処(俗世間と付き合わない)、
法華経に書かれた具体的行法は、安楽行品にしかないでしょ。
やれってハッキリ書いてあるのに、それを無視してやらず、
五文字題目を唱えろなんて、法華経にはまったく書いてないのに、
それを強要して、法華経に帰依したと言い張るこのムジュンよ。
>>752
これね、鎌倉当時も「パクリでしょ?」って質問されたはずなんで、
それを避けるために、パクリ元を先制攻撃して、質問を封じてんのよw
>>759
三沢抄には、お金持ちお殿様の御母堂さまを巡礼乞食と間違えて、
無慈悲に追っ払って、後で詫び状書いてお詫びしてる部分がある、
ついでに下部温泉からきた駿河衆も貧乏人と見下して、
全員追い返したとあり、営業対象はお金持ちオンリーで、
貧しい庶民は日蓮師匠としては、営業の対象外とハッキリしてますよ。
>>764
とにかく、貧乏人助けた記述がないのと、極楽寺良観のように
貧乏人を助けた人物を口を極めてののしる、
という二つの記述しかないでしょ。
>>769
戒律は相承の系譜をも意味してるんだけど、
ニセ仏教坊主の日蓮さまだから、話をゴマかしたいんだと思う。 >>833
>鈴木大拙和尚は、わかってない人かな、それ以上は言わんけど。
鈴木大拙は非言語的言語によって語る人。
それは不立文字は当然として今は横に置いといて(鈴木大拙氏は英語だけで語るから)
「教外別伝」と「直指人心」だけは英語でも伝えられると考えていたのだろう。
そこから座禅やメディテーションを誘い「不立文字」を伝える方が
アメリカ人には理解しやすいとのコンセプトを持っていた。
結果として仏教という名の、もう1つの実存主義に興味を持った西洋人は多くなった。
日本人が読む鈴木大拙と、西洋人が読む鈴木大拙違う。
本質が違うのでは無く
アプローチが違う。
例えば、アラバマ州のアメリカ人が「Is That True ?」と言う
それを聞いた日本人が
正確な英語では「Is That So ?」が正しい言い方なんだ!
と教えてあげるぐらい意味がない。 7
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有門大輔 blog 統一教会 早坂美和子
有門大輔 blog 統一教会 中瀬博之
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7 >>818
>現世利益は功徳、福運という意味です。仏教の考えですよ。
出典を示されたい。言うまでもなく日蓮や創価の戯言は出典にならんよ。
>日蓮仏法こそ民衆救済の仏教の本流であり、世界宗教たりえるのです。
日蓮が民衆の救済になにか努力したという客観的根拠を示されたい。日蓮業者の自己申告や創価の戯言は要らんよ。 >>812
>般若心経に書かれているようなことは、法華経では声聞のために説かれた古い教えであり、
>悟りと呼べるものではないが、そのような二乗でも法華経においては成仏できるという
般若心経はあれはあれで思想書としては面白いし尊ぶべきだと思っているが
般若心経は原典の消失や文章構成力、老荘思想に影響されているので
現在の仏教研究家や東洋哲学の学究達の統一的集合知としては
タオイズムの人達がお経の真似をした偽経とされているよ。
だからと言って般若心経の価値が下がる訳では無いのだが。 >>819>>821
>>感覚的にいうと、歓喜、充実、よしこうしようと一念が定まった状態。
>>ほっといたらそうなります。だから題目を上げて悶々を晴らすんですよ。
解らないって素直に言えよw
解ったのならあんたはそんなところにはいないw >>812
>般若心経に書かれているようなことは、法華経では声聞のために説かれた古い教えであり、
同いう意味か?法華経に般若心経についての言及でもあるとでもいうのか?
事物の空性について説く般若経典群は大乗仏教の本流である。法華経などの及ぶところではない。 >事物の空性について説く般若経典群は大乗仏教の本流である
言ってる意味と言うか、そういう気持ちもわかるし
私自身、般若心経は好きだが
そもそも般若心経はTAOだし
般若心経が一番伝えたがっているのは
どっちが偉いとか、どっちが正しいという執着からは練れよ!
っていう事だから
縁起によって言い争いは生じるけど
生じる度に「その実態は空なんだよなあー」と常に意識しなさいって。
そう書いてあるよね?
敵なんていない。
敵は自分で、自分の心の中だけに作るんだ。
そう思えば心は軽くなるでしょ?
悟りよ幸あれ!
これが般若心経? それが般若心経!
凸レンズで景色を見ると逆さまに見えるが
もう一枚凸レンズを合わせると
逆さまの、逆さまで
レンズが無い時と同じ景色が見える。
でも、レンズが無い風景と凸レンズ二枚の風景は
同じであって
同じでは無い 聖教新聞の教学企画部は、ここのスレをチェックしてるな
本日11月23日の二面見てみw
ここ数日、このスレで話題にしてた事が書かれているよw
このスレには真面目に仏教を勉強してる人が書き込む、だから学会員の迷妄と
学会教学の欺瞞を指摘する機能を持つスレなのだが
よほど学会員に読まれては困るのか?
読んでしまった学会員へ向けてグロテスクな修正主義的プロパガンダを行ってるよw
聖教新聞教学企画部さんよ
あんた達も若い頃はジャーナリズムや文筆で口を糊したいと夢見ただろう?
それが今やどうだ?
報道でも表現者でも無く、上に従って御用売文屋として喧伝するばかり。
それで、あんたの人生終わってもいいのかい?
学生の頃、空を眺めながら笑顔で語った、あんたの道義的な夢は何処に言っちまったんだ?
人間って変わっちまう者なんだな。 >>842
>そもそも般若心経はTAOだし
根拠と証明を示せ。 >>845
>根拠と証明を示せ。
ちったぁ自分で学ぼうという姿勢を見せろよ。
人に聞けば何でも分かる。という怠慢さが新興宗教に騙される地も低下と教養の崩壊なんだ。
証拠を出すから後は自分で確認しろよ!
「何て書いてあるの?」みたいな子供質問は金輪際やめろよ。
ほれ、論拠を示す論文だ
The Heart Sutra: A Chinese Apocryphal Text?",
Journal of the International Association of Buddhist Studies,
vol. 15, no. 2 (1992), 153-223. (Reserve) 無関係な哲学でマウント取りたいだけのクズに言われたら世話ないな(笑) 般若心経にしても法華経にしても、その内容を分析したり優劣付けするより、「その内容が自分にどのような影響を与えたのか?」
が重要じゃね?
般若心経や法華経が発生から1000年以上経ってもポピュラー足り得ているのは、それだけ人間に感銘を与える内容を有しているから。
また、仏教の根本とは何かを指し示す内容を含んでいるから。
その感銘とは何か?仏教の根本とは何か?
その答えは教えの内にあるんだろうけど、ただその内に秘められたものは人を通して始めて発現できる。
人を介さなければ、どんな素晴らしい教えの真髄もただの言葉の羅列としてしか意味を持たない。
深遠なる教えってのは人間の意識に変革をもたらす。
そこを無視すると、法華経を権威化して自分を祭り上げる材料にした日なんとか聖人とか、様々な宗教を自分勝手にランク付けしてそのランクを基準に人間をその人間の属する宗教で絶対評価しようとするなんとか学会と同じになってしまう。
祈っていい気持ちにばかりなろうとするのか、はたまた空や無という深淵に落ち込んで人生の意味を絶望という観点から捉え直そうとするのか、はたまた自分を菩薩と位置付けて世界平和を使命とするのか。
教えは人間を形作る。 >無関係な哲学でマウント取りたいだけのクズに言われたら世話ないな(笑)
ほんと、そうだな
仏教を全く学ぶ気が無い奴が
何故、聖教新聞社で働けるんだろう?
自分でも辛いだけだろw >>841
法華経を考案した人物はとても頭がきれる智者だろう
龍樹や説一切有部やらが互いに罵りあってるさなか、部派仏教と大乗の調停を図るために
成立したのが法華経である、などと言った建前を述べながら
勝劣を論ずるだとか二乗の教えを無価値にするよう仕向けたやり口は実に巧妙と言わざるを得ない
二乗、女人成仏、万人平等といった、どの立場からみても否定することができない慈愛の原理から
法華一元論に持ち込む力技によって良識ぶった馬鹿野郎はものの見事に
屈服させられてしまう。 >>848
>般若心経にしても法華経にしても、その内容を分析したり優劣付けするより、「その内容が自分にどのような影響を与えたのか?」
ほんとにそれが一番重要だよ。
先ず方便品第二からして、かなり分析哲学的実存主義を呈示している仏法と
その仏法を伝える慈悲が現れている。
第二に法華経の作劇、文学性の高さから読み継がれる魅力がある。
古来より読書会で法華経は用いられて来た歴史がある。
ニーチェの「偶像の黄昏」には様々な宗教が世界を二分する事を記述している。
ニーチェの語る二世界論に陥る以前の、生成の無垢を回復する事の重要性は
本来の仏性を(ニーチェは仏教に親しんでいる)回復するのみならず
生成の無垢状態から再びニ世界論に陥らない為のニュー・ワールド・オーダーを
喧伝している。
簡単に言うと、宗教にハマればハマる程、二項対立的思考によって
選り好み、ランク付け、ラベリング、自身の信仰による確証バイアスを持つ事を
危険な事だと言っているのだ。
そして、その(言うなれば)洗脳解除がなされた後も
例の二項対立的思考が形を変えて現れて、主体にパラサイトする危険性をも警告している。 ニーチェなんぞ一つも関係ないからどうでも良いこと書き込むな >>850
>勝劣を論ずるだとか二乗の教えを無価値にするよう仕向けたやり口は実に巧妙と言わざるを得ない
同意。
法華経のコンセプトは三乗の間の差別なく仏性を見る(成仏出来る)事を
繰り返し語っている。
二乗の教えを無価値にするのは、それはスタンスとして小乗仏教(説一切有部)と
トポロジカルな構造なんだよな。
「二乗も成仏出来る」という言質文言は
何かアプリオリな理性に基づいているような表象として受け取られる。(差別的)
そしてだ
一番問題なのは、仏教を真剣に勉強する気が無い信者に
生半可ないい加減な仏教知識を与える事は
害悪にしかならないという事だ。
教学は教学でいいよ。
でも、教える側は最後まで責任を担って信者を教育しなけりゃならない。
それが指導者の責任なんだよ。
それが大人の責任なんだよ。 >>852
>ニーチェなんぞ一つも関係ないからどうでも良いこと書き込むな
そういう思惟を持つ人間が現れる事をニーチェは箴言してたんだ。
いいかい?
人間というのはね、認知心理学的に
「自分に欠落している何かを持っている、第三者が目の前に現れたら
思考が停止したまま、その第三を否定し、敵視する」ものなんだ。
一旦、このバイアスが生じると
「あいつの言ってる事は全て反発してやる!あいつが嫌い!はい、終わり!」
と論題を共有する戦場さえ放棄して逃走するんだよ。
ただ、これは誰にでも生じる心理なんだ。
君だけじゃ無い。多くの人が逃走を図る。
それぞれの意見、見解は違っても良い
論題を共有する土俵に登って
自分の主張を相手に、とにかく伝えようとする努力。
相手の主張を、とにかく冷静に聞いてみようとする努力。
これが、人間の教養なんだよ。 >>846
リンク先の論文をざっと見たが、般若心経寺が道教起源であるとの記述は全くない。
具体的な根拠を示せ。できなければみっともない見栄を張るな。 >>855
こういう子供の会話になるのが嫌だから(知見と視座の個人差を無視する人が多いから)
断っておいたのだが、これが最後だディティールを良く咀嚼してくれ。
Cannot be probably coincidence
の前後を良く読んでみろよ
ザッとじゃなく、精読して見ろよ
私はあなたの家庭教師じゃない。 個人的には、宗教は人間の心を一旦リセットする機能だと思っている。
人間て俗世で生きていくためにはどうしても肉体を保持しなきゃいけないから、喧嘩もするし欲望を満たさなきゃいけないしライバルは蹴落とさなきゃならないし税金や各種社会保障費を払わなければいけない。
どんな聖者も表層現実の喧騒からは逃れられない。
しかし、人間の深淵は自分は俗世に翻弄される肉体ではないことを知っている。
魂でも霊でもアートマンでもハイヤーセルフでも無自性でも気でもアーキタイプでも阿頼耶識でもTaoでもなんでもいいけど、自分の本質部分は形を持たない存在で、聖なる存在から原始生命まで全ての生命が繋がってお互いコミュニケーションしてることを知っている。
日常生活にはこんなことは必要ない。
かえって、この深淵を知ってしまうと日常生活に支障が出る。
時空を超えた生命の深淵を知ると、日常生活があまりにも表層的に感じて肉体維持が興味がなくなり、なにものへも執着が無くなってしまう。
なので自我や肉体はこの事を知っていて、自分が蔑ろにされて消されないように、主である霊や魂に肉体に執着するように働きかける。
「肉体生存のために現世利益を追求しなさい」「自我の満足を維持するために唯一正しいものを求め続けなさい」「負けたら惨めだ。仏法とはあらゆる物事で勝利することだ。」
人間は疲れる。なぜなら自我や肉体の保全に集中しすぎて、自分の本質という泉に蓋をしてしまっているから。
深遠な宗教は、この自分の本質の泉を隠している蓋を開けることが出来る。
深遠な宗教の助けを借りて心の深淵にある泉の蓋を開けると、自分の本質という泉を浴び、俗世の利益の奪い合いや正義合戦や勝ち負けといった対立思考をリセットすることが出来る。
二元対立を我々の本質である一元にノーサイドすることが出来る。
ノーサイドとは、言い換えれば赦しや無償の愛や差異や優劣を帳消しにする慈悲。
般若心経や法華経や道教が普遍性を持つのは、このリセット機能に秀でているから。
般若心経や法華経や道教にこのリセット機能を見出だせず、なにが正しいとか何が間違えなどの権威付けのために使っているなら、それは本質の泉を封印し続ける蓋の重石としての使用方法。 >>853
法華経にもちゃんと、この経を馬鹿に教えてはいけないと書いてあるもんな
狩人や漁師のような血なまぐさい輩、芸人・娼婦のような享楽的な職業、不可触民みたいな不潔なやつと関わるな
賢くて人格高潔で邪教に染まらないパーフェクト超人にこそこの経を説けなどと書かれてあるので
万人平等といっても制限がある。 ついでに、この経を有難がってる人を罵るようなやつは
・阿鼻地獄に落ちる
・ハンセン病になる
・生まれ変わるたびに歯抜けで低い鼻
・手足がねじれて斜視の障碍者になる
これらは、人的な要因でそうなる訳でなくて自然的因果によってそのような状態に陥るらしいが
どこら辺に自然的な因果関係があるのか全然わからない
単なる脅しにしか聞こえず、幸福や平和を入り口にしておいて良く聞いてみると
霊感商法だったみたいな現代の話と変わらんし
障害やハンセン病を罰ゲームのように言うのは罹患してる人たちに失礼だろ。 >>857
また、ややこしい事を書くよ。ゴメンね。
先ず「ノーサイド」というシニフィアンと、あなたが言いたいであろうシニフィエは分かるような気がする。
ポスト構造主義哲学者で現在の精神分析の主流であるジャック・ラカンは
自分という主体・当体の統一感が無い幼児期から
自身の統合が認知できるステージに成長すると語る。(鏡像段階)
しかし身体的統一に向かった主体は、そこにも安住する事は出来ない。
想像界から象徴界(言語使用と、その使用から始まる喪失と抑圧)へと向かい、そこに何某かの心の慰めを得てしまう人間が
偶然にも現実界を覗き見たり、触れてしまう時、人間は精神病になると語る。
仏教には怖いところがある。
対立思考をリセットしノーサイドに持ち込む、前段階において
そのキッカケ、行動原理となる現実界への眼差しと言うものが必ずある。
禅宗で言う禅病という奴だ。
現実界はカミュ言うところの宇宙に存在する奇怪なる植物の様相を冷徹な眼差しで見てしまいう事だ。
簡単に言うと、見たく無い物を見てしまうという事だ。しかし、それが現実であり、真実なのだが。
この段階を上手く乗り越えて行ければ悟れる(ノーサイド)のだろうが
明徹なる知性の眼差しと、強靭な心が無ければ、とても危険な物だとも思うのだ。
畢竟、主体と指導者含めての知性に依存するのでは無いだろうか?
とても面白い意見。ありがとう。 >>770
法華経28品のどこの何行目に
若悩乱者・頭破七分・有供養者・福過十号に書いてるかソースを添えてください >>857
>般若心経や法華経や道教にこのリセット機能を見出だせず、なにが正しいとか何が間違えなどの権威付けのために使っているなら、それは本質の泉を封印し続ける蓋の重石としての使用方法。
最古の文明シュメール人の時代にも、真理と社会規範という本来相容れぬ
物の混同があり、以降、宗教は台所に置いてある包丁ナイフの様に
今日はドレを使おうか?と道具化してしまいました。
国の国策事業、国策企業、国政などにも道具化してしまいました。
この様な「真綿で首を絞める様な、制限付きの自由」の中では
その泉に触れる人はいなくなります。し
そもそも、そんな泉があるのかどうかさえ、考えない人達が母集団になってしまいます。
こんな「そうだよねー 、、普通そうだよねー、、、だよねー、、」という
共感ゲームという人間牧場に入れられた人間は
屠殺され人生が終わるまで、おとぎ話に夢を見続けます。
それは、一部の人達にとって都合の良い事なのでしょう。 日蓮そっくりの
お前誰やねんレベルの上から目線
本人だけはドヤ顔で大勝利宣言 ほんとに日蓮そっくり
ベラベラベラベラよく喋る
その時点で悟りとは無縁だよ
「語って語って語り抜け!」
という池田の妄言には
見事に「お応え」してるから
懐刀(笑)にしてもらえるんじゃないか 語る場所だから語るのは良いけど、どうでも良い話挟みすぎだって度々指摘されてるのに一切聞く耳を持たない
そんな人間が「とにかく冷静に人の話を聞く努力をするのが教養」だとか頭おかしいんちゃうか 自分はラカンのことは良く分からない。
自分はもっと簡単なトランスパーソナル心理学の人間の3つの発展段階で満足している。
プレパーソナル「個人的人格形成以前」
↓
パーソナル「自我の発達に基づく個人形成と営み」
↓
トランスパーソナル「自我の制限が取り払われた、個人を超えた自分の本質を取り戻した状態」
大雑把に言えば、無垢な赤子→自分を何者かと限定した個人人生→自己限定の偽りに気づいて、限定を取り外した再び無垢に戻る純存在
人間は元々限定を持たない純存在。境界の無い生命とも仏とも例えられる。
でも人間として生まれたからには、肉体に付随するから個人として成長しなけりゃならない。
でも、個人というのは人間の本質ではないから、いずれは本質である純存在に戻ることになっている。
その個人から純存在への以降というか回帰がトランスパーソナル。
このトランスは悟りや解脱と例えられたりするけど、トランス方法は一つじゃない。
人それぞれの魂が決めること。
また、トランスする時期や期間も人ぞれぞれ。
トランスしたくない人もいるでしょう。
しかし、パーソナル状態とは生老病死を伴うので、その苦しみはトランスを先送りすればするほど耐えがたいものになる。
誰でもパーソナル状態の人間は、いずれはトランスに向き合わなければならない。
なぜならトランスパーソナルが導く純存在状態が自分の故郷であり、自分自身への帰還なんだから。
芋虫→サナギ→羽化→蝶々に似ています。
おそらく人間は、この羽化に挑戦するために何度も輪廻転生するのではないでしょうか?
そういった意味では、パーソナルを育て強化する日蓮系の宗教は、個人性を強めるという負の面と、自我の強化ゆえに生老病死を耐えがたく肥大させるというトランスへの渇望を生じさせるメリットもあります。
沢山食欲を満たした芋虫はサナギになるしかない。
膨らみすぎた風船は破裂するしかない。
自我は肥大化し続けると破裂します。
そのようなトランス方法もあります。 トランスパーソナルになったら超人になるわけでもエスパーになるわけでもない。
自分を形作っていた個の人生物語が消え、何物へもとらわれない存在そのものの自覚が芽生える。
その存在は全てを包括し、そこから事象が生じ、事象はそこに消え去る。
トランス以前もトランス以降も世の中なにも変わってはいない。
ただ、過去も未来もあそこも彼方もない。
今ここに全てが集約され、全てが連関して明滅する瞬間を永遠に生きることになる。
どのような宗教もゆめまぼろし。明滅の一部。
一部でありながら、欠けてはいけない全てを構成する必須パーツ。
よって、あらゆるものが貴重であらゆるものが尊い。
全てが愛おしい。 誰にも相手して貰えないからってムキになって自演まですることないでしょ
自分に原因があることをそろそろ悟れ、賢いフリしてるけど馬鹿だよお前 お釈迦様が最後に説法された法華経こそ真実でありそれ以前の
お経はカス!と此の法華経は言うがそれ以前の信者は全員
釈迦は救済できなかったのに色々な説法を叱爪らしく説いたらしい。
この点をもう少し取り上げるとお釈迦さんは酷い法螺吹きををしながら遊行生活を
送った人物になるのだ。 法華経説法以前、釈尊は信徒の救済に全て失敗を重ねている。
処が己は仏であると宣言を重ねているわけで、詰まるところ
お釈迦さんは出鱈目放題を説いて遊行をしていた人物だが人生最後の説法の
法華経を説く段階で改心した仏様と言う奇妙な事実関係に突き当たる。 法華経だとバラモンの否定はあるけどカースト制はあんまり否定していないんだな >>869
大乗の他の経典はカスなんて言ってないだろ。小乗の経典、すなわち説一切有部などが書いた経典、アビダルマの否定をしてるだけ。 >>868
もし、自演と思われていたなら残念です。
私は特定教義・特定思想や専門用語が嫌いで、なるべ特定教義や専門用語を自分の言葉に置き換えるように努力しています。
その点に気がついてもらえなかったとしたら、今までの努力が水の泡(;゜0゜)
これは欠点でもあって、文章が冗長になる
原因でもあります。
そのせいで読んでもらえないのかな。
教義や専門用語は、覚者の内証や哲学的問いという生きた知識を凝り固めてしまった概念です。
概念とは生気を失った死体です。
自分で考えない者は自分の頼りを求めるため、その生きた知識を固形化した概念を重宝と感じて、概念そのものを真理として信じようとします。
真理とはうつろい行く生きたものです。
経文や教義や専門用語といった概念の引用で真理を捉えることは不可能。
経文の引用などで真理を説明出来ると思っているならば、法華経中毒者が引用にしか頼れないように、それは固定化出来ないものを固定化するという真理についての根本的な無知。 >>822
「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」という言葉があります。
題目をあげることで自身の生命を妙法のリズムに合わせていくのです。
816で>あなたの内に感じる状態で と制約されたので感覚、感情に限定して述べました。
仏道修行には、生命を変革していく意義があります。
また境涯を開いていく意味から生命境涯論といわれます。
心で感じていることは、九識論でいうと顕在化された意識の一部にすぎず
無意識層を含む全体から見れば、氷山の一角にすぎません。
さっき述べたのはこの部分です。
我々が心と呼ぶその奥にはいくつかの層があり、善悪の業(カルマ)も
この潜在的なアラヤ識と呼ばれる層に備わっているといいます。
肉体が消滅してもなお受け継がれる我ともいえます。
この宿業を変革していくのが信心であり、ゆえに生命を磨き鍛えることが
仏道修行となります。ダイヤの原石も磨かなければ輝きませんね。
九識の最も深奥にあるのが九識心王真如の都であり、これが仏界に相当します。
御本尊という仏の生命に縁して、仏界の生命を日々強くしていく。
また行学(仏法を学ぶこと、語り広めること)を通じて業を変革し、いのちを磨くのです。
そうすることで心の財、功徳、福運を積んでいくことができ、生命の財産となります。
麻薬は健康被害をもたらし、心身を蝕むものですので、
題目の例えに用いるのは全く的外れです。本質的に全然違います。
仰るとおり、人間の感情やいのちの状態は様々な縁に触れることで変遷します。
法性の妙理に染浄の二法あり、とあります。
御本尊への祈りは、わが生命を妙法のリズムに合致させ、軌道に乗せていく意義があります。
落ち込んだり、濁ったりしたら、題目を上げて磨いていく。この繰り返しです。 >>822
>もし悟りの感情があるとしたら、喜怒哀楽総てが必要で繋がりあっておるものとして、
>全ての感情を讃えて愛でる心の状態だと思いますがいかがでしょうか?
法華経に“仏は瞬間瞬間、如何して衆生を無上道に入らしめ成仏させられるかを案じている”
とあり、大我性を開いていく意義があるのはその通りだと思いますが、
日蓮仏法は、釈尊が菩提樹下で得たような頓悟的なものではなく、九界と仏界を往復する漸悟であり、
それゆえ凡夫即極ともいい、一切衆生に開かれた法門といえると思います。
>歓喜や充実という一方のみを求めてしまうのは人間の近視眼的な快楽を欲しがる動物欲
トインビー博士は、池田SGI会長との対談で
「人間は動物であるとともに、理性を持った存在でもあるという困惑すべき立場にある」
といっています。
動物的な側面を否定する必要も、欲を否定する必要もないのですが、
それらは天界の喜びであり、永続的なものではありません。
「大歓喜なり」というのはあくまで生命の最高の境涯である仏界を指しており、
絶対的幸福境涯を確立していくことが目的です。
このように永遠性に立脚しているのが法華経であり、決して近視眼的なものではありません。
広宣流布は、途方もなく遠大なものです。 >>825
法華経では自覚が要請されるようです。
>>827
レスありがとうございます。
827さんが考える無常は、永遠性の志向をどうお考えになりますか。
日本文化に見られる移ろいゆくものの美は、それはそれで尊いものと感じます。
一方で法華経では、一切は妙法蓮華経の姿といい、久遠常住ともいいます。
原始仏典にも「不死の門」を開くなどとあり、
仏教は永遠性を志向するものと思いますがいかがでしょうか。 >>835
>法華経に書かれた具体的行法は、安楽行品にしかないでしょ。
五種妙行(受持、読、誦、解説、書写)というのがあります。
現代の日蓮仏法においては、行学の二道といえると思います。
題目を上げ、折伏や対話をし、仏法を学ぶことです。
日蓮大聖人は、五種の中であえて一番大事なものをいうと「受持」であると仰せです。
>五文字題目を唱えろなんて、法華経にはまったく書いてないのに、
>それを強要して、法華経に帰依したと言い張るこのムジュンよ。
矛盾ではなく、日蓮こそが法華経が予言した地涌の菩薩のさきがけなのです。
その日蓮が顕した御本尊が世界に広まっているという現実が何よりの証明です。 >>838
歩みを行え、衆人の利益のために、衆人の安楽のために、世人に対する共感のために
(中村元訳「原始仏典」筑摩書房)
無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽
のために人間世界に生まれたもうたのです─シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に
(中村元訳「ブッダのことば」スッタニパータ)
是の諸の衆生是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以て楽を受け
亦法を聞くことを得
(法華経薬草喩品第五、現世安穏・後生善処)
また仏が衆生の心田に成仏の種を蒔いて解脱するまでの順序を説いたものを
種熟脱の三益といいます。
今世のみならず来世にも功徳を受けることから現当二世といいます。
>日蓮が民衆の救済になにか努力したという客観的根拠を示されたい
何より一切衆生が成仏するための御本尊を顕したことです。
そして今日、歴代会長を中心に創価学会が広宣流布し、192カ国に仏法が広まる中で
数多くの人材が輩出され、宿命転換し一家和楽の信心を築いた会員がたくさんいるという事実。
詳しくは聖教新聞や体験発表などをご参照下さい。 >>839
詳細は承知していませんが、偽経説には反論もあるようです。
般若心経に書かれている空の思想などは法華経にも書かれていることから
法華経以前からあったものと思われます。
留意すべきは、結集後、長らく口承のみで伝えられてきた経緯から
法華経にしろ他の仏典にしろ、仏典の成立年代と思想の発生、由来は
必ずしも同時期とはいえないということです。 >>841
>般若経典群は大乗仏教の本流である。法華経などの及ぶところではない。
法華経は、諸教の王でございます。
事物の空性は法華経にたびたびでてきますよ。
質問ですが、般若経典では死後の生命をどのように考えていますか?
三世の生命を肯定しているのか、それとも死んだら何も残らないという断見か
文証を挙げてお答え下さい。 >>864
それな。そのくせ自分のカキコに質問されてもまともな答えは一切できない。
ごまかしながら話を広げて遁走するだけ。 >>879さん
横レスになりますが、現役で活動されてます貴方様に質問をしたいのですが宜しくお願い致します。
貴方様の書き込みに、
>結集後、長らく口承のみで伝えられてきた経緯
という概念でありながらして、法華経本文での随所に>>877で述べられてる通り五種妙行があります。
釈迦が法華経の説法が行われた時には既に経巻はあったということではないでしょうか。
そのように解釈しなければ、法師品での、
『何を以って故に、若し善男子、善女人、法華経の、乃至一句に於いて、
受持し、読誦し、解説し、書写し、種種に経巻に、華香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、所W、幢旛、衣服、伎楽を供養し、合掌恭敬せん。』
と辻褄が合わなくなっていきますが、創価学会や日蓮はどのような見解でおられるのでしょうか? >>877
法華経にあるのは受持読誦で、
それは行法なんかじゃなくて、
教団を維持運営する俗物な実務にすぎんだろ。
ブタ坊主は読経に功徳がある、としか言ってない、
手抜きのインチキ仏教だからね。
だから法華経の名前だけを盗んで、
法華経に書かれていな、まったく無関係な
五文字題目をナムナムしたからって、
それのどこがいったい法華宗なのよ?
安楽行品にしか行法が書かれていないんだから、
さっさと座禅して、俗物世間との付き合いを絶てばいいのに、
なんでいつまでも嘘ばっかりついて、
修行しないのだろうか???
まあ法華宗のふりをしてる、ニセモノ法華経集団でしかないわな。 >>770
日連ご本尊はただのバカ、しかも低能で嘘つきで人間のクズの見本だな…。
>>771
如来滅後五五百歳は、500年という限定の期間だから、
末法万年は御書を改ざんして、広宣流布を延長するためだけに、
作り出したデタラメな話だろ、日蓮師匠にも違背してるぞ、特に正宗は。
正像末でいうとお釈迦さまの死後、最初の千年が正法、
つぎの千年が像法、そしてトータル二千年が過ぎて、
2001年目からは末法になるという定義だけど、
日蓮師匠は2001-2500年の五百年間を広宣流布の五百歳と
計算してて、末法万年が広宣流布なんて言ってないですよ。
でも五百歳→万年、と勝手に改ざんして変更しないと、
2019年の現在が広宣流布期間にはならないから、
文献根拠のない嘘をついて、信者さんをダマして、
現金カツアゲできんもんね。
まあ、仏教モドキのやくざ商売としては
致し方ないけど、五百年と万年が違ってることぐらいは、
信者さんは、少しは変に思いなさいよ…。
>>784
文底秘沈は妙法蓮華経の五文字だよ、なに言うてまんねん。
あのね、法華経の行間の白地ぶぶんを、ずーっと睨んでると、
五文字題目がホログラムみたいに
浮かび上がってくるんだそうな、やっぱ題目行は、
MDMAとかヒロポンみたいな幻覚効果があるんだろうな…。 >>836
非言語的言語でいいから、
どんなデタラメを言っても許される、
というものではありません、反抗的な態度なら
さらに突っ込むけど、
両手を左右に真っすぐつきだして、
両手の平で着物の袖口をつかむポーズ、
やっこ凧のカタチとおもえばいいけど、
この禅宗の基本質問を「帆掛け船」とか言ってて、
フザけんなよ、このくそじじいが!とかなり激怒したわ。
そりゃあ大拙和尚の奥さんはアメリカ人だから、
毎晩帆掛け船サービスをしてくれて、
随分とけっこうで、お盛んなことですな、
とは思うけど、それってちげーよ!!
×帆掛け船
〇お寺の山門扉…、転じて仏世界の入り口を示す。
「仏世界に入るのは、どんな方法ですか?」
と聞いてるだけなんで、大拙和尚が解説してる、
江戸時代中期の盤珪和尚が、長崎に来ていた中国僧の超元から
印可をもらう話では、先に盤珪が帆掛け船をやって見せて、
これって順序が逆じゃねーの? と不思議に思ってたけど、
盤珪は教えを受ける立場だから、ほとけ世界ってこうだよ、
と答えを示さないといけないのに、逆に師匠に質問してんのよ。
なんだか、わかってねーなー、という感じだけど、まあしょうがないっか…。 唐時代以前から志那には多量の仏典が流入し、官許の翻訳所も在るほど
盛況が継続した。
然るに在る時代から大乗仏教は迷信の類と看做される、その最もな聴くべき
理由は、志那の儒教と道教に軽重を比較されるからだ。
<法華経に関しては、知る事の決してない未来に於いて成仏を約し、現世においては夢物語を平然と並べるお経では虚談と判される。>
然も似たような内容の物が山ほど並ぶ、読み書きをする知識人は呆れる。
日本に於いて仏教が伝統宗教と化した理由は正確な意味を読み取れない為という説は
否定しきれない。志那大陸には、
宋時代はインドより禅が入り、元時代にはチベットから後期密教が来る。
禅宗と密宗は共に実技が伴う宗教で現在も根強い信仰が在る。
此のスレに創価教学部の面々が御執筆ですが、
江戸時代に一応完成される日本仏教宗旨の教学での仏教統一は不可能です。
必ず錯誤を指摘される、現状の貴方たちが対応するこのスレがその者じゃないですか?
例えば 五時教判を日蓮は己が思想の根本に置いて居ました。
五時教判は仮説であって、其れを間違いと知らない専門学者、僧侶は居ません。
この五時教判は江戸時代仏教学徒には真実と受け取られる権威で在りました。
創価の教学は無理を重ねて居ませんか? >>856
>>846に挙げられた論文にはお前が842で嘯いたように般若心経がTAOなどという話を支持する記述はない。
般若心経がTAOなどとはお前の腐りきった創価脳に沸いたボウフラのような妄念にすぎない。 やっぱり法華経を少しでも読むと日蓮上人の持論が法華経よりだいぶオリジナル持論持ち出してるような
大般若経を読まないから女人成仏について困惑して御書で仏が二言とはどういうことか?と困惑していると指摘があったな 無料教義の40年眉間真実には法華経という単語が実は一言も出てきてないそうではないか
それなのに法華経を説いたと論点をすり替えられてる
無料教義が偽経典の可能性もあるが >>890述語が不正確と思います、意味が取れません >>873
おかしな専門用語でお前に応ずるやつなど他にいるわけないね
自分がトンチンカンなこと言ってるのにそうっやって皮肉を挟んで他人を馬鹿にしたりもする
いくら平静を装っても裏でそういう邪なことをしてる人間は仏教に向かない
「嘘をついたり、怒り恨んだり、恨みの言葉を使ったりしてはならない」と
法華経にも書かれているよ
そんなセコいことやってるやつよりか小細工など労せずストレートに相手を
罵る私のほうがまだ誠実というもんだな
あと、法華経に実際書かれてる文言を元に分析を行うのは極めて普通のことで
書かれてもいないことについて語りだしたり
わけのわからん他の信念やら哲学と強引に結びつけ自分の解釈だけが
絶対的だと言って悦に浸っているやつのほうが
中毒者であり無知を晒している
切り文、引用文をフル活用してた日蓮にもそう言ってやったらどうだ? 印度に於いて尼僧の精舎がどれ程の期間相続したのか私は記録を
未だ検分せずで不明。
お釈迦さまの従兄弟、であります提婆達多師はカシミール地方に小さな精舎を
構え、西暦2世紀くらいまでは仏法を学ぶ学僧、修業者が居ました。
女人は弟子として取らない方針を立て護りました。
釈迦と提婆達多師が諍いを起こしたなどは全くあり得ないお話で、親戚で仏弟子の
提婆氏は成道された聖なる人です。
上座部系の教団が何ゆえに提婆達多の精舎を敵視し、悪宣伝(法華経が代表)を繰り広げたか?
此れが今後の大きな研究課題です。
仏敵と言えば提婆達多と言う人多しですが、先ず調査し考えてからにしたいと思う次第です。
共に成長した肉親のお釈迦さんと争いをおこす?それを奇妙と思わないらしい人が殆どですね。 日蓮が私度僧同然の身で、その教義が妄想や虚偽だらけでカルト的、病的な代物だ
というのはよく分かった
もはやこれ以上議論する必要もないだろう(個人的にはそう思う)
日蓮文字曼荼羅は、近所の仏教マニアのオッサンが適当に書いたお札と
同じようなレベルのものなわけだし、罰も功徳もクソもないだろう
今関心があるのは、では日蓮教から足を洗ったあと
どのような新しい宗教的生き方が可能かである
無宗教になるのは嫌なのだ
日蓮的な狂信性、精神の異常さは徹底的に排除した上で
仏教の正統的な伝統や、西欧や中東の諸宗教からも学びたい 日蓮か釈尊にもう一度解説してもらえればいい
法華経を説いたんですか?
戒壇の本尊は作ったんですか?
と聞けばいい
そんなもん知らんて言うかも知れんし説いたというかもしれん
どうしてみんなこんな簡単なことに気づかないのっていう 般若心経タオ説は苫米地の受け売りでしょうね。
苫米地の上位概念なんたらなんてとんちんかん解釈を無頓着に信じこんでしまう意識高い系は結構いるんだよな。 どんなに否定しようが構わんが、私は無駄な加害被害対立が嫌いだからはっきり言っておくけど、私は法華経が道教と同じと言っている人とは違うから。
私の立場がこのスレで役に立つかどうかは分からんが、私がやりたいと思っていることは悟りという視座からの日蓮の再解釈。
横文字好きの彼は悟りについては直接語らない。
そこで違いが分かると思うよ。
自分は822なんだけど、創価の人からリクエストがあったから日蓮と創価の悟り解釈を2、3日中に解剖するつもりでいる。
それを読んでもらえば、明らかに人物の違いが分かると思う。 だんだん良い感じのスレになってきましたね
皆が各々、仏教の総括やら再構成を自分の言葉で語れる場所にしたかった
これで私の役目は終わりです。 創価が本山から破門される以前の聖教新聞に三大秘宝という記事を見掛け、
是は何者だろう?と思った記憶が在る。
何方か三個並べて解説して下さい、現在の創価仏法では
触れられたくない箇所らしく、説かない様子。 >>883
レスありがとうございます。
仏典が成立したのは釈尊が入滅したずっと後の時代といわれており、
在世時に経巻等はなく、口頭のみで教えが伝えられていたものと思われます。
釈尊入滅の年に阿難、迦葉らの弟子たちによって第一結集が行われましたが、
口誦で確認されたのみで文字化されなかったようです。
それから100年後に第二結集、さらに100年後のアショーカ王治世下に
第三結集が行われますが、いずれも文字化や経巻作成はなかったようで、
仏典成立の痕跡が見られるのは、アショーカ王の王子マヒンダが出家し、
西インドを経てスリランカ(当時のセイロン)に入ってからのようです。
それもおそらく膨大な量から相応の歳月がかかってると思われ、
少なくとも釈尊入滅後200〜300年程経っていると思われます。
大乗仏典の成立はさらにその後となり、諸説ありますが、法華経の場合、
大体紀元前後位から徐々に成立したと考えられています。
思想形成は経典の成立より早いといわれてますが、
発生や由来がいつ頃かは明確にはわかっていません。
このことから大乗仏教は非仏説であるといわれるのですが、
先にも述べましたように原始仏典の成立が早いといっても
数世紀を経ており、大乗のみが非仏説ということはできません。
また大乗仏教の形成は、それぞれグループがあったようで、たとえば
法華経だと法華経教団のグループというように、華厳、浄土、涅槃経など
それぞれの教団があったといわれています。 >>883
つづきです。
創価学会の見解は、池田大作著「私の仏教観」「法華経の智慧」や
各対談などで大乗非仏説に言及しており、以下趣意で引用しますと、
「大乗仏教は決して釈尊と無関係の非仏説ではなく、むしろ釈尊の真意に迫ったもの」
「釈尊が説いたから法華経が偉大なのではなく、法華経を説いたから釈尊は仏である」
「それが誰であれ法華経を説いた人が仏である」
と池田名誉会長が述べられています。(法華経の智慧5巻 P254)
そもそも非仏説との批判は、仏たる存在が歴史上の釈尊一人という前提に立つもので
それ以外の仏の登場や解釈の余地を一切認めないという立場だと思います。
例えば小乗仏教などがそうで、釈尊以外は阿羅漢にしかなれないとされていますね。
しかし未来永劫、釈尊以後の仏が現れないという考えは、あまりにも神格化しすぎており、
誰も成仏への希望を持てなくなります。
ご存知かと思いますが、法華経では如我等無異とあり、仏が一切衆生をして
自身と等しく仏たらしめようとするのが真の仏意であると考えます。 >そもそも非仏説との批判は、仏たる存在が歴史上の釈尊一人という前提
ここでいう「仏説」というのは「ガウタマシッダールタが説いた」という意味なので当たり前ではないでしょうか。
例えば維摩経などはガウタマシッダールタが説いたのではなく、維摩居士が説いているので、「仏説」ではないのです。同じ理由で般若心経、勝鬘経もガウタマシッダールタが説いた訳ではないので「仏説」ではないのです。
しかしこれらの経典は仏経典(仏になるための教えが書かれたもの)なのです。
法華経非仏説はガウタマシッダールタが説いたかどうかが論点です。仏になるための教えが書かれたものか否か、ではありません。論点をすり替えないでください。 つまり、固有名詞としての「仏」と普通名詞としての「仏」がごちゃ混ぜになっている。 如是我聞に仏教徒は
騙されていたのかも?という報告が創価学会教学部より在りました。
仏典の格付けは経、論、疏の順に成ります。
如是我聞と文の冒頭に存るのは経のみ、論は論師で例えば龍樹菩薩、無著、世親。
疏で有名なものは大日経疏となります。 日蓮教義が程度の低いものであり
そのカルト教義通りに実践してしまえば、
悟りに近づくどころかむしろ遠ざかる可能性が高いことはよく分かった
それを認めたうえで、日蓮教義による被洗脳者たちは
もし日蓮教義によって洗脳されていなければ
(歴史や人生にもしもは実際には存在しないけれど)
一体どのような人生、精神生活を送ったと思われるだろうか
日蓮系カルト教団に属し、日蓮や教祖の妄想に一生を捧げた人々
主に低所得で教養の乏しい、品性もあまりよくない人々は
もし日蓮カルト教義によって洗脳を受けない人生を送っていれば、
どんな精神生活を送ったのだろうか
関心はそこに移りつつある レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。