私はプルシャとプラクリティについては二、三の本を読んだくらいしか知識は無いが
それはカントの批判哲学におけるアプリオリな悟性とアポステリオリな悟性と理解している。
間違いがあるなら指摘して欲しい。

禅やヨーガや南伝でも勉強なさっているのなら、よく言う釈尊生誕時に(過去7佛だとしても)
「天上天下唯我独尊」と言われたと言う、、、
そんなバカな話は無い!お釈迦さんが生まれた時も皆と同じように「オギャー」と生まれてきたのだ。
だが、その「オギャー」を「天上天下唯我独尊」と無心に聞く人もいるという事だ。

正誤に非ず、正邪も無し。
法華経を無心に読むならば、それらは平等故の悪平等と気づく筈だ。

サリンジャーは仏教を「ナイン・ストーリー」という本によって作り話を表した。
白隠禅師は隻手音声という公案によって、仏教理解への例え話を表した。
法華経は7つの大いなる嘘!偉大なる例え話で仏法を示した。
それらの虚構性は衆生を救う方便だとして法華経を推奨したのが日蓮大聖人だ。

組織になれば複数の教義のパラダイムが増えると同時に
パラダイムに合わせるように教義が増える事も必然的に起こる。
単純な例だと、近所のしつこい折伏ババアが言っていると事と、法華経に書いてある事には矛盾があると感じた事はあるでしょう?
それは宗教的問題では無く、社会学的問題なんですよ。

いづれにしても貴方の書き込みは興味深い。
禅やヨーガや原始仏教の人達の方が、創価学会員や日蓮正宗の信者よりも
法華経を正確に読めるのでは無いか?と常々思っていると、告白し
とりあえず、今回は終える。
また、何かの指摘や境涯など後学の為に教えて頂ければ望外なる心の喜びと慰めになりましょう。