0553ユー&名無しネ
2020/03/29(日) 08:56:11.19ID:b7sX7qF20東北弁(いわゆるセンスから「女エノケン」の異名も持っていた。手塚幸四郎と結婚、女児を授かるが離婚。その後再婚して夫は作家、脚本家の
村上清寿。
お墓は上野に子一座に入団して剣劇を学ぶも、戦時中の言論統制で思うような演劇活動が出来ず、終戦となった1945年(昭和20年)には
GHQによって「剣劇は軍国主義の象徴」として活動を禁止されてしまう。大半の剣劇スターが剣劇を捨てて現代劇の役者に転身した事や剣劇の劇場が
次々と閉鎖されてストリップ劇場になってしまった事に若水は絶望し、剣劇に見切りをつけて一座を退団した。
その後1946年(昭和21年)、ムーランルージュ新宿座の門を叩き、歌手として入団して芸能界入りした。入団後しばらくは本名の「鏑木八枝子」で出演
していたが、後に「若水ヤエ子」を芸名に使うようになる。この芸名は尊敬していた「水谷八重子」の名前をもじったものである。
ムーラン在籍時は歌、
ダンス、演技を厳しく徹底的に叩き込まれ、この経験が後に彼女が喜劇女優(コメディエンヌ)として開花させるきっかけとなる。当時は歌手として活躍する
傍ら、NHKのラジオ番組『ソーラン娘』などに出演して精力的な活動を行っていた。ムーランルージュ時代の後輩に楠トシエがいる。