ハイデガーも「単純なものほど難しく多くの言葉を必要とする」的なこと言ってる

うんことカレーはどうしても「同等」のものでありわれわれには見分けが付かないわけだが、しかし「同じ」ではない
なぜなら「うんこはカレーである」という命題が真ではないということの直観はわれわれを当惑させる
うんこ/カレー は量子論的存在者である、というわれわれのアイデアはそれに対して一定の解決を与えるものだ

しかし、われわれはそんな不気味な理論的仮設に頼らなくても、うんこあるいはカレーに直接に触れたとき、その「存在」にいつも安心感を得るものではないか!
うんこあるいはカレーの持つ懐かしい感触、匂い、そして味わいがわれわれを安心させ、それにより「それ」がいったい何であるのか、
つまりそれについて事態はいったいぜんたいどうなっているのかという問いが生まれさえしなかったわけだけれども、われわれが哲学的に問い量子論に問い合わせた現状にあっても、あの安心感はそもそもどこから性起しているのであろうか!

フロイトは論攻「不気味なもの」において、その構成要件に「懐かしさ」を挙げている
うんこ/カレー が量子論的なものであるとして、もしかすればその不気味さと懐かしさは強く結びついているといえるのではないか?