1861年にイギリス外務省(領事部門)へ通訳生(首席合格、年俸 200ポンド)として入省、駐日公使ラザフォード・オールコックの
意見により清の北京で漢字学習に従事した。1862年9月8日(文久2年8月15日)、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。
当初、代理公使のジョン・ニール]は、サトウに事務仕事を与えたため、ほとんど日本語の学習ができなかったが、やがて午前中を日本語の学習にあてることが許された
このため、当時横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンや、医師・高岡要、徳島藩士・沼田寅三郎から日本語を学んだ。