後醍醐天皇の正中の乱の際に弁明した言葉がある。
「関東は戎夷(えびす)なり。天下管領しるべからず。卒人の民皆重恩を荷う。聖主の謀反と称すべからず。
但し、陰謀の輩あらば、法にまかせて尋ね沙汰すべき事の由これを載せらる、多く本文を引かる、その文体宋朝の文章のごとし(花園天皇記)」

この時代の公家の国家観は「天下」があって、その「天下」の中に「日本国」(畿内)と「外国」(周辺地域)が併存するというものであった。
彼らは観念の上で2つの国家という意識を持っていたである。そしてさらに天皇や公家の居住地である京都や畿内が清浄で周辺地域は野蛮で文化程度も低いという観念が横行していた。
この野蛮で文化程度の低い地域の代表が東国であると意識されていた。だから後醍醐は率直に「関東は戎夷なり」と言ったのである。