現代人は、死に対して否定的で、且つ、受動的に受け止めている。死は忌む事であり、避けるべき事である。
しかし、元来、思想とは、死を能動的で肯定的に受け止めようとするものである。死を怖れてばかりいたら思想は成り立たない。
 死を肯定的に受け止めようと言う思想には武士道や騎士道などがある。殉教の思想も死を肯定的に捉えている。
 むろん、死を肯定的に受け止めると言っても自殺を肯定するという意味ではない。
 死が避けられない現実ならば、死から逃れようとするのではなく、また、死から目をそらすのではなく、死を直視し、有意義な死とは何かを突き詰めることを意味している。

 人の一生が、死を前提としたものならば、
 死は一つの帰結であり、生は、死に至る道程である。
 死は、人生の終着駅である。
 人生の行き着くところに死があるのならば、死から目を逸らすのではなく。
 死を目の前におき、死を直視する事によって死を乗り越える。
 いかに生きるかが問題なのではない。
 いかに死ぬかが問題なのだ。
 だから、生き甲斐こそ、死に甲斐でもあるのである。

 武士(もののふ)の死は、
 弱々しい死ではなく。
 猛々しい死である。
 ただ成されるままに死んでいくのではなく、
 自分の運命とのたうち戦った末に、
 志が果てた死である。
 武士(もののふ)にとって切腹というのは、自殺の様な消極的な死ではなく、自分の名誉を守らんとする積極的な死である。

 生きると言うことは、必死である。
 事業を成さんとするならば、決死の覚悟が必要である。

 全身全霊で義という壁に突進し、激突する。死は結果に過ぎない。
 問題なのは、義である。
 命懸けで何を護るかである。