>>783
(つづき)

 なのに、先の大戦時、科学者は国家の使用人のように戦争遂行に協力させられた。
戦後、同じ轍(てつ)は踏むまいと同会議に保障されたのが人事の自律だ。

 これに対し、国家の機関なら四の五の言わずに国家権力に従え、というのが安倍・菅流民主主義だ。
国民主権ならぬ、国家先にありき、戦前回帰の「国家主権」とでも言うべきか。

 「現在の政治に対する批判的な意見がたくさんあること」

 評論家の加藤周一は民主主義をそう定義する。(「いま考えなければならないこと」)

 世界を覆うコロナ禍は、あちらを立てればこちらが立たぬ難題を人類に問う。

 感染防止と経済の両立策は。しわ寄せが集まりがちな社会的弱者を支える手立ては。
今の財政支出が将来世代の負担となる現実をどう考えるべきか。

 試行錯誤はやむを得まい。限られた時間のなかで、少数意見をも重視する議論によって合意を探る。
間違えれば柔軟に修正する。まさに「加藤流」民主主義の力の見せどころだが、安倍、菅両氏は議論を嫌う。

 安倍内閣が2017年、憲法53条に基づく野党の臨時国会召集要求に応じなかったことをめぐり、
今年6月の那覇地裁判決は明確にこう指摘した。

 53条に基づく召集には憲法上の義務があり、召集しないのは少数派の国会議員の意見を国会に反映させるという
53条の趣旨に沿わない――。

(つづき)