赤尾敏の人生【CGS 神谷宗幣 赤尾由美 第117-2回】
https://www.youtube.com/watch?v=AcOGtWXO1ZA
赤尾由美さんの叔父に当たる赤尾敏氏とはどのような人だったのか。考え方や人間性、過去の活動などをメインにお話いただきました。

赤尾由美
「ポスターを見て 年配の方ならこれを見ると思いだす笑 叔父がなくなったのは平成2年
東京中の電信柱に貼ってあった。大した事は書いてなくて、名前、党名、毎日、数寄屋橋でやってますよ雨天休みみたいな笑。当時ネットとか当然無いですから
これを貼りまくって叔父の話を銀座数寄屋橋で聴いてくださいねというのが活動の基本だった。(街頭演説は)生涯正確ではないですが3万回くらいやったと言われている。
昭和天皇が亡くなられた翌年に亡くなった。
叔父・赤尾敏は明治生まれの人、大正と昭和激動の時代を生き抜いた。
私調べてて、叔父は本当に、「愛」の人だなと思った
私の父赤尾四郎=赤尾敏の弟の為に、兄赤尾敏が「愛」の文字を書いた、こういう事を明治生まれの人が堂々と書いた。
なので愛国党も、なにも軍国主義とかなんとかそういう事ではなくて、本来そもそも、日本の国体はキリスト教や仏教の様に、「愛」っていうのが国体の元でしょってことを
ずっと一貫して言っている。

若い時に、一時期その三宅島に住んでいたことがありまして。肺病療養のために三宅島に行っていた、
そこで社会主義的ななんていうんですかユートピアみたいな世界を創ろうして共同社会を作ろうとして 20歳くらいですかね若い頃そういう活動をした。
要は、社会主義者だったんですよ。最初、左みたいな。今みたいな単純な左翼とか右翼という分け方ではなくて
「みんなで働いてみんなで分かち合おうよみたいな社会」を目指して最初活動。若気のいたりで頓挫して、東京に戻ってそれから最初は左翼活動家として活動する。
そうこうしてるうちにちょっとトラブルがあって何回も逮捕されてるんですけどちょっと逮捕されちゃって
仲間の裏切りとかあったり、牢屋でいろいろ考えてですね やっぱりその、みんなで仲よくと言っても国体を考えるとその中心
その中心に天皇陛下が居らっしゃっての、みんな仲良くでしょと牢屋の中でハっと気が付いて
出てからは今度、右翼の活動家として活動 一応、牢屋の中で左から右になったと言われている。
叔父の中では、「皆で仲良く暮らす」という点はブレていない
その中心に天皇陛下がいるかいないかで世間からは左と言われたり右と言われたりしてる。正義感の強い人でしたし
「皆で幸せに暮らそうよ」というのが一貫してずっと活動のベースでしたね。

叔父はベースが「愛」なんですよ、ただ世間がどうふうに言うか、レッテルを貼られるだけで、叔父は本当に、
愛の人で「みんな仲良く暮らしましょう」ってそれしかない。

一回だけ戦争中に衆議院議員になった事があるんですけど、
その時も
東条英機に向かって「こんな戦争してたらだめだ」「英米と戦ってる間に裏から赤い虎・敵が入ってきて大変な事になる」と
当時は泣く子も黙る東条英機に、お構いに無しで自分の思った事を勇気をもって、国民の生活を守るためにそういう風に(意見を)言っていた、
愛の人あり、勇気の人であり、活動力もありましたし。
この本の小見出しを「正直に生きる」にした、、本当に、正直さ、純粋さ。これは結果論ですが清貧、簡単に言うとお金が無かった。

活動費は全国からの浄財。それをこういったポスターなどに(使う)。党員達はほぼボランティアでしたから、来ればご飯出すぐらい。給料は当然なかったですし。
そんな感じにかつかつギリギリでやっていましたねー。

基本的には戦後は自分達で憲法も作れない中で「親米 反共」の立場、
ただ家に帰って来ると「アメリカは馬鹿だ」とか言っていた。なんていうんですかね、日本らしさを壊したのはアメリカだという事は念頭に置きつつ
但、今の軍事的な背景を考えればとにかく反共(反共産主義)が第一番でしょ、当時ソ連とか強い、ずっと晩年もそういってましたね・・・。

マスコミ批判とか日教組の批判とか
とにかく日本らしさを解体するモノは全部批判していましたね、あと叔父の言葉ではブルジョア資本家はけしからんていうのはずっと言っていたんですよ。
其れって今でいうグローバル金融資本とかそっちの事だと思うんですよね、でだからブルジョア資本家とつるんだ政治家もけしからんという形で。ブルジョア資本家は批判していましたね
与党も野党限らず、もう滅多切りみたいな。笑」