過熱報道で「市民を殺した」悔やむ元記者 雲仙・普賢岳噴火から30年
2020/11/17 07:00 (JST) 11/17 12:28 (JST)updated
株式会社全国新聞ネット 石川 陽一 共同通信記者

 雲仙・普賢岳(長崎県)が噴火した1990年11月17日から30年。平成最初の大災害に取材は過熱し、
91年6月3日の大火砕流では、避難勧告を無視して撮影を続けた報道陣に巻き込まれる形で、
地元の消防団員や警察官らが犠牲になった。「他社より迫力ある絵(映像)を撮りたい、
その功名心が何の落ち度もない市民まで殺してしまった。悔やんでも悔やみきれない」。
駆け出しの記者兼アナウンサーとして現地で取材にあたった、長崎文化放送(NCC)の
中尾仁(なかお・じん)さん(52)が当時を振り返った。(共同通信=石川陽一)(以下略)
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> 市は同日、普賢岳の麓の一部に避難勧告を出したが、報道各社は黙殺して取材を続けた。
>中尾さんは「行政が大げさに言っているだけ、ぐらいにしか考えていなかった。最初のけが人が
>やけどで済んだため、『巻き込まれても死なない』という誤った認識を持ってしまった」と打ち明ける。
>
> 当時、報道各社は溶岩ドームの先端から約3・5キロにあり、
>火砕流が下る谷の真正面を「定点」と呼び、撮影拠点にしていた。
>ここも避難勧告の区域内となり、市や県警は再三にわたって退去を求めたが、聞き入られなかった。
>中尾さんは「勧告区域内に立ち入るのは、ジャーナリストとして当然の権利だ」と考えていたという。
>むしろ、「報道の自由を当局が規制しようというのか」と反発さえ感じていた。

> 大火砕流は結果的に、避難勧告の区域内で止まった。犠牲になった消防団員たちは
>一度は退避したが、一部の報道関係者が無人の民家の電源を無断使用する事件があり、
>見回りのために戻っていた。つまり、報道各社が市の要請に従っていれば、
>犠牲になることはなかったのだ。「マスコミが住民を殺した」との批判に返す言葉はなかった。

> 「自分が生きていることを不思議に感じる。亡くなった人たちは、熱かったろうなぁ」。
>今年5月下旬、中尾さんは久しぶりに現地を訪れ、つぶやいた。高台から大火砕流が通った跡を見渡し、
>視線の先には定点があった。「自分を含め、あの時は記者魂をはき違えていた。
>本当は他社に勝ちたかっただけ。巻き込んでしまった人たちには申し訳ないと思う」