>>843
まさにそのままの流れでルイセンコに抹殺されたバビロフさんって方がおりましてね

ニコライ・ヴァヴィロフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%95
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彼は食糧の安定確保のためにも多様な遺伝資源を確保することが肝要であると考え、世界各地への大規模な農学・植物学調査旅行を行った。
この成果に基づき、遺伝的多様性が高い地域(遺伝子中心)がその作物の発祥地であると考え、栽培植物の起原についての理論を発展させた。
さらに当時では世界最大の植物種子コレクションを創設した。研究の結果は、著作『栽培植物発祥地の研究』にまとめている[1]。

しかし同じ1930年代に、メンデル遺伝を否定するトロフィム・ルイセンコが政治的に勢力を拡大し、それに真っ向から反するヴァヴィロフの学説を排撃するようになる。
1940年ついに「ブルジョア的エセ科学者」として解職・逮捕され、1943年にサラトフ監獄で栄養失調のため死去した。

ヴァヴィロフが収集した種子コレクションのうち、独ソ戦に際してドイツ軍が占領した地域(主にクリミアとウクライナ)の研究施設に保管されていたサンプルは、
オーストリアのグラーツ郊外のナチス親衛隊の研究所に運び去られた。
しかし、コレクションの中核となるレニングラードに保管されていたサンプルは、悲劇的なレニングラード包囲戦にもかかわらず影響を受けなかった。
標本の種芋を守りながら自らは餓死した研究員の話も伝えられている。
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