ニコンがカメラ本体の国内生産を終了へ アサヒカメラ記者が見た「ニコンは一つ」の思い
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米倉昭仁2020.12.19 18:00dot.
 ついにニコンは、70年以上続けてきたカメラボディーの国内生産に幕を下ろす。これまでボディーの製造は、宮城県にある「仙台ニコン」と、タイの「ニコンタイランド(NTC)」で行ってきたが、
コスト削減のため、タイ工場に集約する。
 ミラーレスカメラZ 7、Z 6の生産は9月末で完了し、10月からタイへの生産移管準備を開始している。デジタル一眼レフのD6も2021年度中にタイへ生産を移管する予定だ。
 1971年に設立された仙台ニコンは、仙台市の南に接する名取市にある。一眼レフの生産は「リトルニコン」の愛称で知られるEM(79年発売)から始まり、徐々に高級機の生産へとシフトして
いった。海外の生産工場に対して技術指導を行う「マザー工場」としての役割も担ってきた。
 私はこれまで仙台ニコンを取材で3回訪れたことがある。最近の製造現場はカメラのデジタル化にともないクリーンルーム化されているが、それ以前はニコンF5など、フィルムカメラが作ら
れる様子をすぐ横に立って見ることができたのはいい思い出だ。

■「ニコンは一つ」 目に飛び込んできた応援メッセージ
 なかでもいちばん印象に残ったのが2013年の訪問だった。
 その2年前、名取市は東日本大震災の大津波に襲われた。仙台ニコンの工場には津波は達しなかったものの、地震の揺れによって大きな被害を受けた。
 工場に足を踏み入れると、大きな文字で「ニコンは一つ」と書かれた横断幕が目に飛び込んできた。そこにはたくさんの応援メッセージが書き込まれていた。被災した仙台ニコンを激励す
るため、NTCから贈られたものという。
 会議室に招き入れられ、身が引き締まる思いがしたのは、担当者がこうあいさつしたときだった。
「誠に残念ながら、東日本大震災により仙台ニコンの従業員にも犠牲者が出ました。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。これから東日本大震災による被害状況、そしてどう復
旧していったかを説明します」
 前方のスクリーンに海岸沿い大きな松の林が映し出され、その上を津波が越えてくる。
「仙台空港の近くです。この集落にも社員の家がありましたが、津波で流されました」
 画面が切り替わる。工場の東、海辺にある閖上(ゆりあげ)地区を小さな丘の上から見渡すように写している。立ち並んでいた住宅のほぼすべてが押し流され、基礎部分だけが残っている。
説明もなく、誰も何も言わず、ただじっと画面を見つめた。

■最優先課題だったFマウントの生産再開
 そして、震災直後の工場内。あらゆる種類の部品が床に散乱し、そのなかに無残にも調整用の機器が倒れ込んでいる。それがもっとも被害が大きかったカメラの組み立て工程の現場だっ
た。バヨネットマウント(Fマウント)の加工機の上にあったクレーンも落下。何トンもある電装工程用の設備も滑り動いた。
「でも、あれだけいろいろなものが倒れて、天井の一部も落ちましたが、工場内では一人のけが人も出なかったんです」
 仙台ニコンは1978年の宮城県沖地震などを教訓に、地震発生を揺れの前に知らせる警報システムを導入。避難訓練も行ってきた。建屋をかなり補強したことも幸いしたという。
 地震発生から3日後の3月14日、斎藤二郎社長(当時)が出社してきた従業員にハンドマイクで呼びかけ、工場の復旧活動が始まった。