179のつづき

 大阪は江戸時代「商いの街」すなわち「商都」でした。その背景には参勤交代がありました。参勤交代の大名行列の装備や、江戸の生活に必要な装束や持ち物は、大名の品格にふさわし
いものを買いそろえる必要がありました。競って京都や大阪で高級な手工芸品を購入し、江戸に持って行ったわけです。明治時代になって参勤交代がなくなり、大阪は工業都市すなわち「工
都」に転換し、その中心は紡績業でした。第二次世界大戦後も大阪は「工都」の性格が強かったですが、公害問題などから工場の地方移転や海外移転が進み、今は「工都」とは言えません。
 今の大阪は「打ち合わせ」の場ではないでしょうか。たいていの企業が生産拠点は地方や海外にあり、商品の倉庫も地方にあるのに、大阪や東京に拠点をもつのは他の企業の本店や支
店がたくさんあるからでしょう。他の企業の本店や支店がたくさんあるから営業しやすいし、契約した後の「打ち合わせ」もフェイス・トゥ・フェイスでできる。だから都会にオフィスがあるし、オ
フィスがたくさんあるから飲食店やエンタメ関係の施設もたくさんできるわけです。これが都市の過密や地方の衰退につながっていると思います。
 今後はもっと業務のIT化や在宅勤務を推進して、「打ち合わせ」の地理的分散を図ってほしいと思います。江戸時代は自給自足的な農業社会だったので、人口分布が今よりずっと全国に
分散していました。今は最も人口の多い東京都は、最も少ない鳥取県の20倍以上の人口を抱えています。しかし明治時代の初めには、東京よりも新潟県や兵庫県の方が、人口が多かった。
明治時代になってもまだ農業社会だったため、米の取れ高が人口に大きく影響したため、米どころの人口は多かったのです。
 その後、工業化が進み、さらには「打ち合わせ」の場になることによって都市への人口集中が進んでいきました。この流れを変えるのは容易ではありませんが、先ほどお話した「自然の恵
み」の「リサイクル」、地域での自然エネルギーの生産など、地域の自立を進めれば道が開けるのではないでしょうか。(構成:添田愛沙)