177のつづき

 農地は「自然の恵み」の一つですが、日本全体で農地は毎年減り続けています。耕地の利用率は90%程度で、利用されていない農地も増えています。木綿栽培は、農地として使われて
いない土地を活用している例が多く、眠っている「自然の恵み」をリサイクルしているといえます。
 たとえば、「河内木綿藍染保存会」は高速道路の高架下の空き地で木綿を栽培(「夢のコットンロード in佐堂」の取り組み)しているし、「ニッポンバラタナゴ高安研究会」は廃校になった学校
(旧北高安小学校)の運動場で木綿を栽培しています。
 木綿は5月に植えられ、9月に綿花を収穫します。稲作とほぼ同じ時期に作られるため、休耕田のリサイクルに最適です。最近、国産小麦のパンや国産大豆の豆腐なども人気を集めていま
すが、木綿もかつて盛んに作られたため、比較的容易に栽培でき、小麦や大豆と並ぶ有望な作物といえると思います。また、木綿の栽培だけでなく、採れた綿花を衣料や袋物に加工するに
も人手が必要です。地方の人々に仕事を提供でき、眠っているマンパワーが発揮される。これも一種のリサイクルといえるのではないでしょうか。

朝鮮由来の「河内木綿」が廃れた理由
──「河内木綿」に着目した理由を教えてください。
前田:大阪経済の流れをみると、木綿が大きな役割を果たしていることが分かりました。最初は「木綿の大阪史」のようなイメージを描いていましたが、高度経済成長期に木綿は主役の座を
降りてしまうため、うまくまとまらなかったんです。何かヒントはないかと思い、2018年に八尾市で開かれた「河内木綿まつり」に出かけました。そして八尾の皆さんの話を聴いていたところ、
「木綿リサイクル」がキーワードとして浮かんできました。「河内木綿」が江戸時代には全国有数のブランドだったということもあり、現代までつながる経済史として描こうと考えました。
 河内とは大阪府東部に細長く広がる地域のことで、現在の北河内の7市と中河内の3市、南河内の9市町村を指します。中河内に位置する八尾では1600年代初頭から木綿の栽培が行わ
れていました。1704年の大和川の付け替え工事を機に広大な新田が開かれたことによって、河内地方は木綿の一大産地となりました。その後、1888(明治21)年に大阪府全体の木綿栽培
もピークを迎えましたが、1916(大正5)年には「壊滅」ともいわれる状態に陥りました。
「伝統的な河内木綿」と、当時世界標準だった英国の木綿とは種の系統が異なります。河内木綿は恐らく大本をたどると朝鮮から来たと思われます。私たちがふつうイメージする木綿の布は
インドなど外国産の綿花を原料としていますが、これは海外で古くから伝わってきた木綿の種が育ったものです。イギリスやインド、アメリカなど外国産の木綿は、繊維が細いので薄い布を
織れるし、引っ張られても切れにくいため機械化に適していました。国内産の木綿は繊維が太いので、肌着のような薄い布は作れません。引っ張られると切れやすく機械化にはあまり適さな
いので廃れていきました。
 ここ20〜30年で国産木綿栽培の動きが高まってきましたが、私の本では河内木綿を栽培する3カ所を紹介しています。

●「八尾市立歴史民俗資料館」
 八尾市立歴史民俗資料館は「伝統文化の保存」という観点から木綿栽培を始め、摘み取った綿から種を取り除く綿繰りや糸紡ぎなどの体験ができる。木綿をテーマとした企画展もしばし
ば開かれている。
●「NPO法人 河内木綿藍染保存会」
「自分たちで作った木綿の布に模様を染めたい」という思いから木綿栽培を始め、自分たちで木綿を栽培している。