当時、南京での日本軍の殺戮行為は第一報こそ新聞等で報道されましたが、その後は
全く記述がありません。むしろ殺戮の記述は訂正されているのです。

『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…過去の主な出来事の南京の項目で
出てくるのは昭和2年の南京暴行事件(第一次南京事件)である。南京大虐殺の記述は無し。

『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938/2月発行…日本軍による
掠奪・強姦・破壊の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938/夏季号…日本軍による
恐怖の支配の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938/4月発行…金と掠奪品と女を求めて隈なく町を歩き
回る日本兵の記述あり。殺戮の記述は無し。

日本軍の殺戮行為の報が、一時期、新聞・雑誌で書かれていたのは事実です。しかしやがて噂は
収束に向かったのです。

●支那事変1周年の蒋介石の声名 1938/7/7 漢口
《(略)戦場や、日本占領地域では、資源財産の計り知れない損失に加えて、経験豊かな
数限りない青壮年、婦女子、年老いた人々が、大量殺戮、強姦、その他の無慈悲な蛮行を
免れることができなかった。(略)
広東を例にとろう。この町は過去2週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。
機関銃が悪魔のように狂いまくり、家屋が粉々になり、市民の血や肉が飛び交った。(略)》

これは「友好国への声名」の中で、「日本人の残虐行為」という章の中の文言です。
後に30万人が虐殺されたと主張する南京を挙げずに、数千人の犠牲者の広東を例に挙げてます。
つまり南京大虐殺とは作られた事件なのです。1938/7月にティンパーリの、『WHAT WAR MEANS
The Japanese Terror in China』が英国で出版され。1938年末にその漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』
が支那で出版されました。ここからプロパガンダが始まったと言っても過言ではありません。