・沖縄にもペリーはやってきた

アヘン戦争が黒船が東シナ海に姿を現すようになると、琉球王国とは国際公法のなかでいかなる存在かということが問題になった。
1844年にはフランスのアルクメーヌ号が来航して通商を要求した。
薩摩藩の付庸国であり、清と特殊な関係にもある琉球王国が、国際法上の主体となれるのか、また、この条約に有効性があるのか微妙なところだった。
島津氏はこのあいまいな関係をフルに活用し、パリ万博には「薩摩・琉球」として出品を行った。しかし、そういう変則状態をいつまでも続けることは欧米の植民地にされる危険があった。

・国際公法を味方につけて琉球王国を併合

アジアでは、大清帝国をめぐって、その領土について、本当に中国が国際公法上の義務を果たせるものなのか、また、冊封関係というのは、国際公法上のいかなる状況なのか整理する必要があった。
冊封関係にあったのは、朝鮮、ベトナム、琉球だった。清国政府では、冊封関係というものをなんらかの形で国際法上で位置づけたいと考えた。
たとえば、併合してしまうとか、外交権のない保護国として扱うかである。しかし、清国は西洋の国をどうしたら納得させられるかなどまじめに研究したり工夫したりしなかったので、三つの冊封国ともに、清国との絆はあっさり断ち切られた。
つまり、ベトナムについては、清仏戦争の結果、清国は冊封関係を解消させられてしまい、琉球は日本への編入を日清戦争後に追認。そして、朝鮮についても、いろいろあったが、やはり下関条約でこれを解消することを清は受け入れた。