ウーマン村本が知らない沖縄と中国の本当の関係(特別寄稿)
2018年01月17日 08:30

ウーマンラッシュアワー村本大輔氏の“妄言”から沖縄と中国の関係について議論が盛んだが。
こんなことが起こるのも日本の教育のなかで国の歴史をきちんと教えていないからだ。
もう日本史は社会科から外して公民教育の一環にでもしてもらわないとどしようもない。

関ヶ原の戦いから10年もたたない1609年に琉球王国は薩摩の島津氏に出兵され、
なすところなく制圧され、以降、その支配下に置かれた。

幕府は、島津氏による琉球征伐を許可した。第三次朝鮮遠征をすべきという世論をかわすために幕府が琉球を標的にした側面もあった。
薩摩軍はほとんど抵抗らしい抵抗も受けずに本島北部に上陸し、あっという間に首里城を陥れ、国王尚寧は鹿児島に連れ去られた。尚寧は3年間もヤマトに抑留され、将軍に接見させられた。
また、15条の掟を承認した。そのなかには、中国への関係も薩摩の監督を受けることや、国内で不当な扱いを受けた者が薩摩へ訴えでることが可能なことが書いていた。

島津氏は役人を常駐させて実質的な支配下に置いたが、同時に、王国は形の上で維持した。徳川家康は、琉球に日中貿易を実現する仲立ちを期待した。
薩摩は琉球に明に対して交易を認めるように交渉させ、聞き入れないなら数万人の軍勢を福建省に送って軍事的に攻撃することまでほのめかした。
しかも、明は薩摩の支配下に入ったことを怒ってそれまでの2年ごとの進貢を10年にいちどにすると嫌がらせをした。

結局、中国側もだいたい2年に1度の進貢を復活させ、島津氏としてはそれなりのメリットが確保できた。

また、島津氏は奄美群島を直接支配下に置いた。奄美については、古代からヤマトの影響がかなり及んでいたところにもかかわらず、
日本が混乱期にあるときに、琉球王国が15世紀に併合した。奄美と沖縄の間にある与論島と沖永良部島はもともと北山王国に服従していたのを併合したが、
ついで奄美大島に近い徳之島、さらに、1447年には奄美大島、1466年には喜界島が征服された。

そういう意味では、古くから沖縄の一部だったわけではない。島津氏は奄美を直轄領化したが、建前としては琉球王国の領域であることをやめたわけではなく、
大島郡が設置されて大隅国に編入されたのは1879年の琉球処分のときである。
奄美大島では18世紀になってサトウキビの生産が盛んになり、この専売制で得た資金は、薩摩藩が雄藩としてのし上がっていくことを支えた。

そして、明治維新まで、琉球国王は明や清に朝貢し皇帝から冊封を受けるが、一方で薩摩藩に支配され、江戸の将軍にも朝貢使節を送るという関係となった。
島津氏に支配されている実態を中国側も知らなかったのではない。